2024年03月31日
No.5856 ちょっと一休み その922 『やっぱりビートルズ革命はすごかった!』
昨年12月30日(土)放送の「映像の世紀バタフライエフェクト」(NHK総合テレビ)で「ビートルズとロックの革命」をテーマに取り上げていたので内容の一部をご紹介します。

当時のアメリカ大統領、バラク・オバマ(2010年 米国議会図書館 音楽賞の授賞式にて):
「リバプールからやってきた彼らは一夜にして全てを変えてしまった。」
「ビートルズはわずか数年のうちに音楽のあり方を永久に変えてしまった。」
「そして無限の可能性と大変革にあふれた時代のサウンドトラックとなった。」

1960年代、イギリスの港町(リバプール)から彗星のように現れたビートルズ。
全世界で売り上げたレコードは10億枚、この記録は未だに破られていない。

ミュージシャン、ブルース・スプリングスティーン:
「1964年、ビートルズの「抱きしめたい」がラジオから流れてきた。」
「それからというもの、俺の人生はギターとロックンロール一色になってしまった。」

活動した8年間(1962年〜1970年)で1000回を超えるライブを行い、行く先々で熱狂を巻き起こした。
4人の奔放な言動は旧来の価値観を書き換えた。
人種の壁、階級の壁、性別の壁、全てを揺り動かした。

エリザベス女王:
「もしもビートルズに会えなかったら、私たちの人生はどれほど淋しいものだったでしょう。」

そして、その音楽は分厚い冷戦の壁を越え、自由を求める若者たちの心に火を点けた。
グリゴリー・ヤブリンスキー元ロシア共和国副首相:
「ビートルズはカルチャーショックだった。」
「私たちにとって言葉では言い表せない、あまりに異質なものだったから。」
「しかし、前に向かって進むために、生きていくために必要な何かだった。」

物語の始まりは第二次世界大戦さなかのイギリス。
イングランド北西部の港町、リバプールはナチス・ドイツによる激しい空襲に見舞われていた。
1940年、この街で一人の男の子が生まれた。
ジョン・ウィンストン・レノン、大戦の英雄、ウィンストン・チャーチルがその名の由来だった。
ジョンの父親は船乗り。
典型的な労働者階級だった。
だが、両親は離婚。
ジョンは5歳の時から叔母の家に引き取られた。

ジョン・レノン:
「信じられないことだが、母は生まれることを本当に望んでいたとは思えなかった。」
「実際に母も父もいなくなってしまった。」
「両親が僕の誕生を望んでいなかったと認識するのは最もつらいことだった。」
「いつも違和感と物足りなさを抱えていた。」

ジョン誕生の2年後、この港町にもう一人、男の子が生まれた。
ポール・マッカートニー。
ポールの親も労働者階級だった。
そして、彼もまた14歳で母を失っていた。
ポール・マッカートニー:
「ティーンエイジャーの頃、悲しみから逃れるために何かが必要だった。」
「僕にとっては、それが曲作りだった。」

お互いを知らない二人だったが、ある共通の音楽に夢中になっていた。
ロックンロール。
リバプールには戦後、多くのアメリカ兵が駐留しており、彼らからアメリカの最新のレコードが入って来ていた。
中でも二人の心をつかんだのは黒人ロックンローラー、リトル・リチャードだった。
最大のヒット曲「Long tall Sally のっぽのサリー」。
衝撃を受けた二人は進むべき道を決めた。

ジョン・レノン:
「初めて「Long tall Sally」を聴いた時はあまりにも凄すぎて言葉が出なかった。」
「あんなに凄いものがこの世に存在するなんて。」
「他にもいろんなことがあったけど、15歳の僕の心を射抜いたのはロックンロールただ1つだった。」

ポール・マッカートニー:
「リトル・リチャードの歌声は天国から聴こえてくるようでもあり、同時に地獄からのようでもあった。」
「ある日、彼の歌声を真似してみると、自分にも出来ることが分かった。」
「大事なのは自分の中の羞恥心を全て消し去ること。」
「後はやるだけだ。」

ジョンとポール、二人の運命の出会いは1957年7月6日。
友人たちとバンド、クオリーメンを結成していたジョンは、この日、地元リバプールの教会のイベントに出演した。
ポールはこの日、ライブ会場に足を運んでいた。
ジョンの粗削りだが、パワフルなボーカルに興奮した。
初めての対面、二人は大好きな音楽の話で盛り上がった。
そしてポールは、そばにあったピアノに向かい、歌い出した。
その完成度にジョンは驚き、バンドメンバーに誘った。
その翌年にはポールの友人であるジョージ・ハリスンも加入。
4人のうち3人が揃った。

ポールをバンドに誘った時の心境をジョンは後にこう振り返っている。
「今のメンバーよりも明らかにうまいやつを仲間に入れるべきか、やめておくべきなのか、グループを強化するのか、それとも自分の地位を強化するのか。」
「僕の決断は、ポールを仲間に入れ、グループとしてのレベルを上げるというものだった。」
「ポールは素晴らしかった。」
「おまけに顔がエルビスに似ていたんだ。」

更にこの時期、彼らにとって幸運な出来事が起こった。
戦争終結後も続いていた2年間の兵役が1960年をもって廃止されたのだ。
兵役を免除されたのは1960年時点で21歳以下の男子だった。(当時、ジョン 20歳、ポール 18歳、ジョージ 17歳))
ポール・マッカートニー:
「ビートルズの本当にすごいところは、すんでのところで徴兵から逃れられたことだ。」
「生まれるのがあと2〜3年早ければ、全員、陸軍に入隊させられていたわけで、僕たちはどこかの駐屯地に配属されて、出会うことすらなかったかもしれない。」
「本当にラッキーだった。」
「僕らには自由と60年代が味方についていたんだ。」

1960年、3人が向かったのはヨーロッパきっての繁華街、西ドイツのハンブルクだった。
ライブハウスがひしめく、この街で3ヵ月にわたって武者修行の日々を送った。
ジョージ・ハリスン:
「僕たちのライブ活動のピークはハンブルクだった。」
「僕たちは沢山の観客を集められるようになったし、バンドとしての技術もすごく向上した。」
「なぜなら毎晩8時間も演奏しなければならなかったからだ。」

だが、まだこの時は革ジャン姿で酒を飲みながら演奏する粗野なバンドの一つに過ぎなかった。

彼らを一躍人気者に押し上げたのは、ある人物との出会いだった。
リバプールの実業家、ブライアン・エプスタインである。
エプスタインはリバプールでレコードショップを営む裕福な中流階級だった。
客からたびたび「ビートルズのレコードはないの?」と聞かれたエプスタインは、ライブハウスに足を運んでいた。
ブライアン・エプスタイン:
「ビートルズの演奏を聴いた時、何かとてつもなく激しいものが迫って来て、彼らの音楽、ビート、ユーモアに一瞬のうちに心を打たれてしまった。」
「しかし、驚いたのは暗くて煙たいステージで演奏していたことだ。」
「長い間、演劇をたしなんできた私にとっては、彼らのステージ演出は物足りなく感じた。」

そしてビートルズのマネージャーに名乗り出た。
1062年には、ハンブルクで知り合った腕利きのドラマー、リンゴ・スターがバンドに加入。
ここにビートルズの4人が揃った。

エプスタインはビートルズのイメージチェンジを図った。
お揃いの上等なスーツを身に着けさせ、港町の不良から洗練された都会の若者へとルックスを改造した。
ジョン・レノン:
「エプスタインは言った。」
「「いいか、スーツを着れば、これだけ儲かるんだ」と。」
「分かったよ、スーツを着よう。」
「金がもらえるなら、風船だって着てやるよ。」

ポール・マッカートニー:
「モヘアのスーツで揃ってステージに上がると、なんだか黒人アーティストになれたような気分だった。」

更に1曲ごとに深くお辞儀をすることを提案した。
ステージでの飲酒やたばこなども禁止し、幅広い層からの支持を目指した。
1962年10月5日、シングル「Love Me Do」でのレコードデビューを果たす。
快進撃が始まる。

ミュージシャンのスティング:
「初めてビートルズを聴いたのは中学生の時だった。」
「水泳プールの更衣室にいた。」
「友人とお互いの下半身をタオルでバシバシ叩いてふざけていた。」
「部屋の隅のラジオから「「Love Me Do」が流れてきたとたん、僕らはバカ騒ぎを止めた。」
「それは革命的とさえ言える、刺激的な体験だった。」

真っ先に熱狂したのは若い女性たちだった。
ビートルマニア現象がヨーロッパ中に広がっていく。
少年たちは長髪に憧れるが、髪はすぐには伸びない。
かつらをつけた。

街中の男性たち(イギリス):
「これ以上、見過ごせない。」

「長髪たちの反抗はとどまるところを知らない。」

「長髪の若い男たちは、もはや男か女かも判別出来ない。」

デヴィッド・ボウイ(17歳)
「俺たちを「女みたいだ」と言って、からかうのはそろそろ止めてくれないか。」

しかし、何よりも違っていたのは音楽だった。

最大の革新性は、自分たちで作詞作曲をこなしたことだった。
当時は、プロの作曲家が作った曲をバンドが演奏するという、分業制が常識だった。
ジョン・レノン:
「ビートルズの唯一の特徴は自分たちで曲を書いたことだ。」
「エルヴィスは黒人のレコードや既存の曲をカバーしていた。」
「でも僕たちは自分で書こうと決断した。」
「自分たちについて書けば、いいじゃないかと思ったんだ。」
「勿論、最初はバカで子どもじみた曲ばかりだったけど、そうやって少しずつ上達していったんだ。」

大好きだった黒人音楽をベースに自分たちの言葉でリアリティ豊かな愛の歌を作った。
それは若者たちの気持ちを代弁する初めての音楽だった。

ビートルズの後を追う若者たちが次々に出現した。
レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ:
「ビートルズが出てくる前と後では状況が全く変わっていた。」
「作曲なんて夢にも思わなかった奴らが「俺もいっちょやってみるか」と思うようになったんだ。」

ピンク・フロイドのロジャー・ウォータース:
「ビートルズから自分たちの人生や感じたことを書いてもいいんだ、自分たちをありのままに表現してもいいんだと学んだ。」
「俺たちは自由なアーティストであり、その自由には価値があるのだと。」

ビートルズの音楽から発っせられる熱は社会のあり方まで変えていく。
当時のイギリスは厳然たる階級社会であった。
ビートルズのメンバーは労働者階級の出身だった。
彼らは階級社会に声高に異を唱えるのではなく、その音楽とユーモアで軽やかに階級の壁を飛び越えた。

これは1963年、イギリス王室後援のチャリティーイベントにビートルズが招待された際の映像で、大勢の上流階級を前にジョンが発した伝説のMCである。
「最後の曲になりました。」
「皆さんにも協力していただきたいと思います。」
「安い席の皆さんは拍手をして下さい。」
「あとの方は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい。」(笑い声と拍手)

4人のステージを、この日、出演する一人のミュージシャンが見つめていた。
バート・バカラック:
「あの夜のビートルズのようなバンドは見たことがなかった。」
「彼らには特別な何かがあって、それを説明するのは難しい。」
「しかし、私は忘れない。」
「この4人のイギリス人は、彼ら自身も知り得ない世界に向かっていた。」

大きな地殻変動が起ころうとしていた。
これはビートルズの故郷のサッカークラブ、リバプールFCのサポーターが歌う応援歌「She Loves You」。
チャンスの映像。(アンフィールド・スタジアム)
戦後生まれのベビーブーム世代はビートルズの存在に勇気を得て、社会に飛び出していった。

イギリスの作家、ニック・コーンの回想・
「私が17歳でニューキャッスルからロンドンに出てきた1963年、ビートルズは「She Loves You」を発表し、世の中は突然、可能性に満ちて輝き始めた。」
「戦後の禁欲的な空気が一変した。」
「徴兵制も終わり、初めて若者が自分の人生を自分で決められるようになったんだ。」

労働者階級の若者はビートルズに背中を押され、新しい文化を生み始めた。
若い女性のスカートの丈は一気に短くなった。
ミニスカートブームの火付け役となったのはモデル、ツイッギー。
彼女も労働者階級の出身だった。
ツイッギー:
「(自分の成功に戸惑っていないか、生まれはごく普通の労働者階級だが、という記者の質問に対して、)いいえ、なぜ戸惑う必要があるの?」
「ビートルズが階級の壁を壊した。」
「育った階級なんて関係ない。」
「才能さえあれば、成功出来るの。」

ジョン・レノン:
「(最近の若い女性はミニスカートやワイルドな格好で露出し過ぎだと思わないかという質問に対して、)いいや、普通のことだよ。」
「ロングヘアが当たり前になったように、皆すぐに慣れるんだ。」

1964年2月7日、ビートルズの衝撃はアメリカ上陸した。
空港では3000人の若者が彼らを出迎えた。
しかし、ここにも勿論、4人に眉をひそめる人たちがいる。
男性:
「アメリカでは彼らのことをゲイと呼ぶかもしれない。」

女性:
「私は(彼らに)近づきたくない。」
「叫び散らす女の子たちみたいには絶対になりたくない。」

理容師:
「ビートルズは理容師業界に大損害を与えた。」
「彼らのファンは1年も2年も髪を切りませんから。」
「私は彼らの髪をタダでも良いので切ってあげたいですよ。」

リンゴ・スター:
「(アメリカの理容師協会にどう思われているか怖くないかという記者からの質問に対して、)俺たちは既にイギリス中を逃げ回っているからね。」
「(アメリカにいる間、髪を切ったりしないかという記者からの質問に対して、)いや、結構です。」

しかし、批判を口にする人もビートルズが気になってしょうがなかった。
それを証明したのが、ビートルズが出演したエド・サリバン・ショー(1964年2月16日)。
視聴率40%、7000万人がテレビにくぎ付けになった。
ミュージシャン、キャロル・キング:
「演奏は絶叫するファンでほとんど聞こえなかったけど、ビートルズが一曲目を演奏し終えた頃にはアメリカ中のティーンエイジャーは髪の毛を伸ばし、ギターを弾こうと決意していた。」
「インタビューの時の4人の無礼な受け答えは多くの若者に「彼らみたいになりたかったんだ、奴らは俺たちの考えていたことを口に出している」と気付かせた。」

ビートルズのアメリカ訪問を題材に、後に1本の映画が作られている。
新人監督、ロバート・ゼネキスは、「抱きしめたい」で女らしさという従来のモラルを壊し、ビートルズに熱狂する少女たちを生き生きと描いた。

アメリカの作家、バーバラ・エーレンライクら:
「ビートルマニアは60年代最初の女性を主人公とした大衆の爆発だった。」
「自制心を捨てること。」
「叫び、気絶し、暴徒となって颯爽と駆け回ることは意識的ではないにせよ、結果的に女性ティーン文化に対する性的抑圧や性別のダブルスタンダードに抗議することとなった。」
「それは女性の性革命の最初の、そして最も激的な蜂起だった。」

ミュージシャン、レディ・ガガ:
「ビートルズがいなかったら、女性が廊下でカーディガンを脱ぐことはなかったと思う。」
「彼らこそが女性に性革命をもたらした責任者だった。」

黒人ジャーナリスト、カール・チャンセラー:
「私たちの不満や願望を代弁する存在だったモハメド・アリとの共演は、私の中でビートルズをよりクールな存在にした。」
「それまで白人は私の世界の外の存在だった。」
「しかし、ビートルズのおかげで白人と黒人の間にも共通項があると知ることが出来たのだ。」

ポール・マッカートニー:
「僕のやっていることの多くがリトル・リチャードや、彼のスタイルのおかげなんだ。」
「彼はよく「ポールが知っていることは全部俺が教えたものなんだ」と言っていた。」
「その通りだと僕は認めるよ。」

黒人ミュージシャン、スモーキン・ロビンソン:
「ビートルズは「黒人の音楽を聴いて育った」、「黒人音楽が大好きだ」と言ってくれた初めての白人だった。」
「他にそんなことを言ってくれる人は過去に1人もいなかった。」
「最高の賛同を受けた気持ちだった。」

1964年9月11日に行なったフロリダ州ジャクソンビルでのコンサートがアメリカ社会を揺るがせる。
ジャクソンビルは、特に黒人差別が激しい地域だった。
野球観戦やコンサートでも彼らは隅の座席にまとめて追いやられていた。
だが、それを知ったビートルズは記者に対し、「人種隔離をするならコンサートを行わない」と宣言した。
ポール・マッカートニー:
「人種差別なんてくだらない。」
「黒人だって他の人たちと何も違わないじゃないか。」
「彼らを動物か何かだと勘違いしている人たちがいるよね?」
「人間を動物扱いするなんてバカみたいだ。」
「僕は自分の隣に誰が座ったって構わない。」
「僕ら4人ともそう思っている。」
「イギリス人は皆そう考えているし、コンサートでも人種隔離なんてしない。」
「そんなことをするなら、僕らは演奏しない。」

ジャクソンビルの地元紙はビートルズを攻撃する次のような社説を掲げた。
「ビートルズが作り出す狂乱の時代」
「一過性の流行にすぎない。」
「モップ頭の“芸術家”気取り」

しかし、4人の意志は揺るがなかった。
コンサートは黒人の隔離席を設けず、決行されることになった。
白人と黒人が入り混じる2万3000人が共に熱狂した。

この年、公民権法が成立。
差別意識が強い南部のほとんどのスタジアムでも、その後、人種隔離政策は撤廃された。

さて、妨害電波のノイズが混じったビートルズだったが、ソ連の若者たちはラジオにかじりついた。
ソ連の若者:
「この世のものとは思えないほど素晴らしかった。」
「喜びで心がいっぱいになって、どうしたらいいか分からなくなった。」
「何年もあけて積もり積もった憂鬱や恐怖が一瞬で消え去った。」

エレキギターを自分で作ろうとする若者も現れた。
エレキギターの部品を作るには、公衆電話の音の増幅装置を使えばよいといううわさが広がり、公衆電話が破壊される事件が頻発した。
ソ連のビートルズファンの回想:
「ビートルズは音楽的な安らぎの源だっただけではない。」
「スターリン主義を思い起こさせる退屈で無意味な儀式とは違う、僕ら自身の世界を創る手助けをしてくれた。」
「表向きは共産主義国家の要求に従って暮らしながらも、僕らはビートルズを信じることで、その一部を静かに拒否していた。」

1966年6月、ビートルズがとうとう日本にやって来た。
しかし、伝統の武道の場、武道館を外国人のコンサートに使わせることに右翼団体が激しく抗議、テロ予告まで起こる騒ぎとなった。
ポール・マッカートニー:
「僕らは用意された場所で歌うだけだ。」
「何かを侮辱するつもりはないし、僕たちも伝統的だと思うけど。」

ジョン・レノン:
「レスリングもコンサートもそんなに変わらない。」

4人は身の安全のため、ホテルから出ることを許されなかった。

更に翌月(1966年8月)のアメリカツアーでも事件が起こる。
ジョン・レノンが新聞のインタビューで何気なく発した言葉がキリスト教批判であると曲解され、大規模な不買運動が始まった。
不買運動はエスカレートし、殺害予告まで突き付けられた。
ジョンは釈明に追われた。
「子どもたちにとってはキリストよりも僕らの方が人気があると言っただけで、僕は宗教を否定したわけではない。」
「皆が思っているようなことを言ったつもりはない。」
「つまり反キリスト教とか反宗教とか、私は神ですとか、そういう意味ではない。」

一連の出来事は4人から人前に出て演奏する意欲を奪っていった。
ポール・マッカートニー:
「出くわしたトラブルに、もううんざりだった。」
「僕たちは永遠にツアーを続けられると思っていたが、それはもう無理だろうと気付き始めていた。」

1966年8月29日、4人は、この日のサンフランシスコ公演を最後のコンサートにしようと決めた。
ポール・マッカートニー:
「ここに来られてうれしいよ。」
「素晴らしい眺めだ。」
「一緒に手をたたいて歌って欲しい。」

リンゴ・スター:
「ツアーに嫌気がさしていた。」
「ツアーをやるほど下手になっていったからだ。」
「歓声が大き過ぎて、バンドの音楽が聞こえなかった。」
「3人の唇を読んで、どこを歌っているか見当をつけるありさまだった。」

1967年6月、EMIスタジオで再び人前に現れた時、ビートルズは大きな進化を遂げていた。
これは世界初の世界同時生中継番組、「アワ・ワールド」、新曲「愛こそがすべて」のレコーディングが生中継された。
ポール・マッカートニー:
「僕らは誰一人として、音楽面での不安は持っていなかった。」
「みんな早く曲作りにとりかかりたくて、ウズウズしていた。」
「休暇があったお陰で僕らは自由になり、クレイジーなアイデアを次々に思いついたんだ。」

1967年6月、ライブ休止後、1作目のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発売。
この作品は音楽界に革命をもたらした。
アルバムの裏には曲の歌詞が印刷された。
前例のないことだった。
4人は揃いのスーツを脱ぎ捨て、ひげを生やし、アイドルであることを止めた。
その音楽は、インド音楽、クラシック、シュールレアリスム、古今東西の音楽を取り入れた芸術に進化していた。
これはビートルズの最高傑作と評価する人も多い。
アルバムのラストナンバー、「A Day in the Life(ア・デイ・イン・ザ・ライフ)」、レコーディングには40人のオーケストラが参加した。
もはや、ライブでの再現など考えない、複雑で高度な音楽表現に挑んだ。

キング・クリムゾンのロバート・フリップ:
「「A Day in the Life」の最後の信じられないような結末に、ああ、私は衝撃を受けた。」
「その一夜がまさに転機となった。」
「もはや不動産管理を学びに大学に行くことは出来ないとはっきりした。」

オアシスのノエル・ギャラガー:
「「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は俺にとって特別なんだ。」
「俺は5月29日に生まれ、アルバムは6月1日にリリースされた。」
「生まれたての俺が病院にいた時、このアルバム病院のラジオでかかっていたんだ。」

ミュージシャンのルー・リード:
「ビートルズなんて好きだったことは一度もない。」
「あんなのゴミだ。」
「じゃあ、誰が好きかって?」
「誰も好きじゃないんだよ。」

しかし、収録曲の1つがBBCから放送禁止処分を受けてしまう。
理由は歌詞にあった。
「I love to turn on」の「turn on」というという表現が「ドラッグを決める」
ということを意味する隠語だったからだ。

更に「Lucy in the Sky with Diamonds」も放送禁止処分を受けた。
タイトルの頭文字が薬物、LSDを示しているという疑いをかけられた。
この疑いにジョン・レノンは後にこう答えている。
「全くそんなことはない。」
「息子が絵を描いたので「これは何?と聞いたら、「ルーシーがダイヤモンドと一緒に空にいる絵だ」と言った。」
「僕はそれを素敵だと思い、曲を書いたんだ。」

しかし、アルバム制作時、4人は実際にLSDを使用していた。
勿論、違法だったが、当時、他にも多くのミュージシャンが公然と使っていた。
1967年6月、イギリスのテレビ局がポールを追求した。
「(どれくらいLSDを使ったのかという問いに対して、)4回だよ。」
「(どこで手に入れたかについて、)違法なのだから、それを言うのはバカだ。」
「言いたくない。」
「(自分がファンにドラッグを勧めてしまったと思わないのかという問いに対して、)それは君たちだ。」
「つまりテレビだ。」
「僕が言いたいのは、今、まさに君たちが広めているということだ。」
「この話はイギリス中の家庭に届く。」
「僕はそうならない方がいいと思うけど、君の質問のせいでそうなっている。」

その2ヵ月後、ビートルズを打ちのめす出来事が起きた。
マネージャー、ブライアン・エプスタインが薬物の過剰摂取で急死した。
まだ32歳だった。
ジョン・レノン:
「何て言えばいいのか、・・・」
「彼はビートルズの一員だった。」

ジョージ・ハリスン:
「今の気持ちを言葉で言い表すことは出来ない。」

エプスタインに代わり、ビートルズのまとめ役を買って出たのがポールだった。
1967年、ポールのアイデアでビートルズ自身が監督となり、脚本なしのシュールな映画を作った。
しかし、この映画はビートルズ初の大失敗と言われるほど、批評家から酷評された。
ジョン・レノン:
「僕はまだ感覚が狂ったままだった。」
「ブライアン・エプスタインが“そろそろこれをやろう”って言いに来るような気がしてたんだ。」
「でも代わりにポールがそれをやり始めたのさ。」

関係がぎくしゃくし始めても、その一挙手一投足は世界にブームを起こし続けた。
1968年2月、4人はインドを訪れた。
ドラッグに代わるインスピレーションの源泉を求め、1ヵ月にわたり、インド式の瞑想を体験した。
ジョン・レノン:
「瞑想を1日8時間、日常がずっと楽になった。」
「しかもドラッグなしで。」
「瞑想は人生最高の幻覚体験だった。」

横尾忠則:
「ビートルズをアイドルとしていた僕は、(ビートルズのインド行きの)このニュースに、まるで脳天をハンマーで一発くらわされたほどの衝撃を受けた。」
「彼らのあの甘い少年のルックスは突然ヨギー(聖者)の如き長髪とひげ面の容貌に変わってしまった。」
「ビートルズは十代のアイドルから哲学者集団と呼ばれるようなグループに変わり、彼らのライフスタイルは音楽を超えて、世界の若者の意識を変革するに十分なメッセージの役目を果たしつつあるように思えた。」

熱烈なビートルズファンだった若かりしスティーブ・ジョブズもインドに修行の旅に出た。
「インドの田舎にいる人々は僕らのように知力で生きているのではなく、直感で生きている。」
「そして、彼らの直感はダントツで世界一というほどに発達している。」
「直感はとてもパワフルなんだ。」
「この認識は僕の仕事に大きな影響を与えてきた。」

ジョンはインドから帰ると前衛芸術家のオノ・ヨーコと過ごす時間が増え、ビートルズから距離を置き始めた。
そして、当時の妻との離婚を決めた。
その時、ジョンには5歳の息子、ジュリアン・レノンがいた。
この頃、ジュリアンは父親のジョンよりもポールになついていた。
ポールはジュリアンを励まそうとあの曲を書いた。
「Hey Jude」はビートルズ最大のヒット曲となり、世界中でカバー曲が誕生した。
ソ連を構成する国の1つ、エストニア、歌ったのは自分でギターを作り、音楽を始めた17歳のイヴォ・リンナ。
エストニアは人口130万人の小国だったためか、例外的にソ連の規制の緩い場所だった。
リンナはカバー曲をテレビで発表、しかもロシア語ではなく、民族の言葉、エストニア語で歌った。

ソ連の衛星国、チェコスロバキアでは人気歌手、マルタ・クビショヴァがカバー曲を発表した。
チェコはこの時(1968年8月)、ソ連によって武力で制圧されていた。
プラハの春と呼ばれた急激な民主化をソ連は許さなかった。
クビショヴァは「Hey Jude」にチェコ語で独自の詞をつけた。
ソ連の弾圧に抗議する意志を密かに込めたものだった。
発売されたレコードは60万枚という空前の大ヒットを記録した。
しかし、1970年1月、クビショヴァは音楽界から永久追放され、レコードは発売禁止となった。
社会主義圏で歌われた2つの「Hey Jude」は、この20数年後、革命の原動力となっていく。

「若くして大富豪になったビートルズが解散を発表しました。」(テレビニュース)
1970年4月、激動の60年代が終わるとともにビートルズは解散した。
ビートルズの活動期間は7年7ヵ月だった。

しかし、ビートルズの革命はまだ終わっていなかった。
1985年、ゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連ではロックへの規制が解かれた。
ビートルズのコピーバンドを取り上げたテレビ番組で、バンドは「Can`t buy Me Love」にロシア語の歌詞を乗せ、更なるソ連の変革を訴えた。

1988年、ソ連の構成国、エストニアでは30万人もの観客が集まるライブが行われた。
ライブの中心人物はイヴォ・リンナ、20年前、「Hey Jude」をカバーした若者は国民的シンガーとなっていた。
リンナは観客と共にソ連からの独立を求める歌を歌った。
この出来事は「歌う革命」と呼ばれ、更に独立運動が燃え盛っていく。
1989年11月、共産党の支配が続いていたチェコスロバキアでも革命が起きた。
無血革命が果たされた日、姿を消していた、あの歌手が人々の前に現れた。
「Hey Jude」を歌い、音楽界を追放されたマルタ・クビショヴァ:
「ある時、学生たちに「Hey Jude」を歌ってくださいと頼まれました。」
「長い間、歌っていなかったから自信がありませんでした。」
「すると学生は「僕たちが覚えています 教えます」と言うのです。」

チェコの人々は禁じられてきたクビショヴァの「Hey Jude」を20年ぶりに、高らかに歌った。

解散後もビートルズ再結成の噂がたびたび流れては消えていた。
1980年12月8日、ジョン・レノンがファンを名乗る男の凶弾に倒れ、亡くなった。
21世紀、最初の年、2001年11月29日、ジョージ・ハリスンが肺がんでこの世を去った。
ジョージが亡くなる直前、ポールとリンゴは病床を訪れている。
ポール・マッカートニー:
「3時間か4時間、思い出を語り合った。」
「その時、僕はジョージと初めて手を握り合ったことに気付いたんだ。」

リンゴ・スター:
「ジョージは起き上がれなくなっても、最期までユーモアを忘れなかった。」
「僕が「ここを離れたくないけど、娘が病気で、もう行かなくちゃいけないんだ」と言ったら、「一人で大丈夫かい? 一緒に行こうか?」だって。」
「これが最期の言葉だったよ。」

そしてビートルズは2人になった。

2001年、スティーブ・ジョブズは音楽の楽しみ方を変える新製品を発表した。
スティーブ・ジョブズ:
「今回、ご紹介するのはiPodです。」
「ビートルズを流してみましょう。」
「「アビイ・ロード」と「ハード・デイズ・ナイト」、どっちにしようか。」
「年齢がばれちゃいますね。」

「ビートルズは4人がお互いのマイナス面を補い合っていた。」
「うまくバランスが取れていて、全体としては個々を足した以上のものとなる。」
「ビジネスも同じだ。」
「大きなことは1人ではなしえない。」
「人と人が組み、チームとなってこそ、偉業を成し遂げられる。」
「ビートルズの曲にこんな一節がある。」
「僕ら2人には、目の前に広がる長い道より、もっと長い思い出がある。」
「それは僕ら2人にとって真実だ。」

最大のライバル、ビル・ゲイツもビートルズが大好きだった。
2人はまるでジョンとポールのように切磋琢磨しながら、新しい世界を切り開いてきた。
ビル・ゲイツ:
「私たちはビートルズが大好きだった。」
「僕らの関係を表すのにビートルズの曲「Two Of Us」を引き合いに出したことがある。」
「私たちがともに競い合い、一緒に仕事をしてきた道のりはまるでこの歌のようだねと。」

「AIの手助けを借りてポール・マッカートニーが世界を驚かすニュースを発表しました。」(テレビニュース)

2023年6月、ビートルズ最後の新曲を発表すると、ポールが明かした。
「その曲(「Now And Then」)はジョンが取り組んでいたデモ。」
「それを完成させて今年、発表することにしました。」
「私たちはAIの力を借りて純粋なジョンの声を得ることが出来たのです。」

リンゴ・スター:
「(今でもビートルズでプレイしたいと思うことがあるかという問いに対して、)勿論だよ。」
「いつでも。」
「最高のバンドだったからね。」

ビートルズは、この世界をどう変えたのか。ジョン・レノンはその死の5年前(1975年4月4日)、フランスのテレビ局のインタビューに対し、こう語っていた。
「僕が気に入らなかったのは、僕たちが何かをリードしているという主張だった。」
「60年代は“新しい世界を発見しに行く船”だった。」
「そしてビートルズは、その船の見張り台に立っていただけだ。」
「僕たちは「Land Ho! おーい、陸地だぞ!」と叫んだ。」
「それだけだ。」
「僕たちが何に貢献して、何に貢献しなかったのか、僕には分からない。」
「人それぞれビートルズから受けた影響の度合いは違うだろうしね。」
「言えるのは僕たちの世代が全員で60年代という船に乗り、新しい世界へ行ったということだ。」

以上、番組の内容の一部をご紹介してきました。

番組の内容を以下にまとめてみました。

(ビートルズの業績)
・全世界で売り上げたレコードは10億枚、この記録は未だに破られていない
・活動した8年間(1962年〜1970年)で1000回を超えるライブを行い、行く先々で熱狂を巻き起こした
・4人の奔放な言動は旧来の価値観を書き換えた
・人種の壁、階級の壁、性別の壁、全てを揺り動かした
・その音楽は分厚い冷戦の壁を越え、自由を求める若者たちの心に火を点けた

(奇跡的なビートルズの誕生)
・ジョン・レノンとポール・マッカートニーはロックンロールが大好きだった
・中でも二人の心をつかんだのは黒人ロックンローラー、リトル・リチャードで、最大のヒット曲「Long tall Sally」に衝撃を受けた二人は進むべき道を決めた
・1957年7月6日、ジョンとポール、二人は地元リバプールの教会のイベントで運命的に出会い、大好きな音楽の話で盛り上がた
・そしてポールは、そばにあったピアノに向かい、歌い出し、その完成度にジョンは驚き、バンドメンバーに誘った
・その翌年にはポールの友人であるジョージ・ハリスンも加入し、4人のうち3人が揃った
・更にこの時期、彼らにとって幸運な出来事が起こった
 -戦争終結後も続いていた2年間の兵役が1960年をもって廃止された
 -兵役を免除されたのは1960年時点で21歳以下の男子だったので、すんでのところで徴兵から逃れられた
・1960年、3人が向かったのはヨーロッパきっての繁華街、西ドイツのハンブルクだった
 -ライブハウスがひしめく、この街で3ヵ月にわたって武者修行の日々を送った
 -この時は革ジャン姿で酒を飲みながら演奏する粗野なバンドの一つに過ぎなかった
・彼らを一躍人気者に押し上げたのは、ある人物との出会いだった
 -リバプールの実業家、ブライアン・エプスタインで、彼はリバプールでレコードショップを営む裕福な中流階級だった
 -ビートルズの演奏を聴いた彼はビートルズのマネージャーに名乗り出た
・1062年には、ハンブルクで知り合った腕利きのドラマー、リンゴ・スターがバンドに加入、ここにビートルズの4人が揃った
・エプスタインはビートルズのイメージチェンジを図った
 -お揃いの上等なスーツを身に着けさせ、港町の不良から洗練された都会の若者へとルックスを改造した
 -更に1曲ごとに深くお辞儀をすることを提案した
 -ステージでの飲酒やたばこなども禁止し、幅広い層からの支持を目指した

(ビートルズの快進撃)
・1962年10月5日、シングル「Love Me Do」でのレコードデビューを果たし、快進撃が始まる
・真っ先に熱狂したのは若い女性たちだった
・ビートルマニア現象がヨーロッパ中に広がっていく
・少年たちは長髪に憧れるが、髪はすぐには伸びないのでかつらをつけた
・何よりも違っていたのは音楽だった
 -最大の革新性は、自分たちで作詞作曲をこなしたことだった
 -大好きだった黒人音楽をベースに自分たちの言葉でリアリティ豊かな愛の歌を作った
 -それは若者たちの気持ちを代弁する初めての音楽だった

(ビートルズの後を追う若者たち)
・ビートルズの後を追う若者たちが次々に出現した
 -レッド・ツェッペリン
 -ピンク・フロイド など

(社会のあり方まで変えていくビートルズの音楽)
・当時のイギリスは厳然たる階級社会であったが、ビートルズはその音楽とユーモアで軽やかに階級の壁を飛び越えた
 -1963年、ビートルズはイギリス王室後援のチャリティーイベントに招待された
・ビートルズの故郷のサッカークラブ、リバプールFCのサポーターが歌う応援歌は「She Loves You」だった
・戦後生まれのベビーブーム世代はビートルズの存在に勇気を得て、社会に飛び出していった
・労働者階級の若者はビートルズに背中を押され、新しい文化を生み始めた
 -若い女性のスカートの丈は一気に短くなった
 -モデルのツイッギーはミニスカートブームの火付け役となったが、彼女も労働者階級の出身だった

(ビートルズの衝撃はアメリカにも上陸)
・1964年2月7日、ビートルズの衝撃はアメリカ上陸した
 -空港では3000人の若者が彼らを出迎えた
・しかし、ビートルズに眉をひそめる人たちもいた
・ビートルズは理容師業界に大損害を与えた
 -彼らのファンは1年も2年も髪を切らない
・しかし、批判を口にする人もビートルズが気になってしょうがなかった
 -ビートルズが出演したエド・サリバン・ショー(1964年2月16日)の視聴率40%、7000万人がテレビにくぎ付けになった
・ビートルズのアメリカ訪問を題材に、後に1本の映画が作られている
 -新人監督、ロバート・ゼネキスは、「抱きしめたい」で女らしさという従来のモラルを壊し、ビートルズに熱狂する少女たちを生き生きと描いた

(アメリカの黒人差別の壁を打破)
・黒人の不満や願望を代弁する存在だったモハメド・アリとの共演は、ビートルズをよりクールな存在にし、白人と黒人の間にも共通項があると知ることが出来るようになった
・1964年9月11日に行なったフロリダ州ジャクソンビルでのコンサートがアメリカ社会を揺るがせた
 -ジャクソンビルは、特に黒人差別が激しい地域だった
 -野球観戦やコンサートでも彼らは隅の座席にまとめて追いやられていた
 -しかし、それを知ったビートルズは記者に対し、「人種隔離をするならコンサートを行わない」と宣言した
 -そうした中、ジャクソンビルの地元紙はビートルズを攻撃する社説を掲げたが、4人の意志は揺るがなかった
 -コンサートは黒人の隔離席を設けず、決行されることになった
 -白人と黒人が入り混じる2万3000人が共に熱狂した
・この年、公民権法が成立した
・差別意識が強い南部のほとんどのスタジアムでも、その後、人種隔離政策は撤廃された

(ソ連の若者たちにも影響を与えた)
・妨害電波のノイズが混じったビートルズだったが、ソ連の若者たちはラジオにかじりついた
・エレキギターを自分で作ろうとする若者も現れた
・ビートルズは音楽的な安らぎの源だっただけではなく、僕ら自身の世界を創る手助けをしてくれたと回想する若者もいる

(ビートルズの日本上陸)
・1966年6月、ビートルズがとうとう日本にやって来た
・しかし、伝統の武道の場、武道館を外国人のコンサートに使わせることに右翼団体が激しく抗議、テロ予告まで起こる騒ぎとなった
・4人は身の安全のため、ホテルから出ることを許されなかった

(アメリカツアーでも事件が発生)
・更に1966年8月のアメリカツアーでも事件が起こる
 -ジョン・レノンが新聞のインタビューで何気なく発した言葉がキリスト教批判であると曲解され、大規模な不買運動が始まった
 -不買運動はエスカレートし、殺害予告まで突き付けられ、ジョンは釈明に追われた
・一連の出来事は4人から人前に出て演奏する意欲を奪っていった
・1966年8月29日、4人は、この日のサンフランシスコ公演を最後のコンサートにしようと決めた

(大きな進化を遂げたビートルズ)
・1967年6月、EMIスタジオで再び人前に現れた時、ビートルズは大きな進化を遂げていた
・これは世界初の世界同時生中継番組、「アワ・ワールド」、新曲「愛こそがすべて」のレコーディングが生中継された
・1967年6月、ライブ休止後、1作目のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発売された
・この作品は音楽界に革命をもたらした
 -アルバムの裏には曲の歌詞が印刷された
-4人は揃いのスーツを脱ぎ捨て、ひげを生やし、アイドルであることを止めた
 -その音楽は、インド音楽、クラシック、シュールレアリスム、古今東西の音楽を取り入れた芸術に進化していた
 -これはビートルズの最高傑作と評価する人も多い
 -アルバムのラストナンバー、「A Day in the Life(ア・デイ・イン・ザ・ライフ)」、レコーディングには40人のオーケストラが参加した
 -もはや、ライブでの再現など考えない、複雑で高度な音楽表現に挑んだ
・しかし、収録曲の1つがBBCから放送禁止処分を受けてしまう
 -理由は歌詞に「ドラッグを決める」ということを意味する隠語が含まれていたからだ
・更に「Lucy in the Sky with Diamonds」も放送禁止処分を受けた
 -タイトルの頭文字が薬物、LSDを示しているという疑いをかけられたからである
・しかし、アルバム制作時、4人は実際にLSDを使用していた
 -勿論、違法だったが、当時、他にも多くのミュージシャンが公然と使っていた

(マネージャー、ブライアン・エプスタインの急死)
・1967年8月、ビートルズを打ちのめす出来事が起きた
 -まだ32歳だったマネージャーのブライアン・エプスタインが薬物の過剰摂取で急死した
・エプスタインに代わり、ビートルズのまとめ役を買って出たのがポールだった
・1967年、ポールのアイデアでビートルズ自身が監督となり、脚本なしのシュールな映画を作った
 -しかし、この映画はビートルズ初の大失敗と言われるほど、批評家から酷評された
・4人の関係がぎくしゃくし始めても、その一挙手一投足は世界にブームを起こし続けた

(インドでの瞑想体験)
・1968年2月、4人はインドを訪れた
・ドラッグに代わるインスピレーションの源泉を求め、1ヵ月にわたり、インド式の瞑想を体験した

(ビートルズ最大のヒット曲、「Hey Jude」のカバー曲が世界中で誕生)
・ジョンはインドから帰ると前衛芸術家のオノ・ヨーコと過ごす時間が増え、ビートルズから距離を置き始め、当時の妻との離婚を決めた
・その時、ジョンには5歳の息子、ジュリアン・レノンがいたが、ジュリアンは父親のジョンよりもポールになついていた
・ポールはジュリアンを励まそうと「Hey Jude」を書いたが、この曲はビートルズ最大のヒット曲となった
・また、世界中でカバー曲が誕生した
 -ソ連を構成する国の1つ、エストニア、歌ったのは自分でギターを作り、音楽を始めた17歳のイヴォ・リンナだった
 -ソ連の衛星国、チェコスロバキアでは人気歌手、マルタ・クビショヴァがカバー曲を発表したがチェコ語で独自の詞をつけた
 -ソ連の弾圧に抗議する意志を密かに込めたもので、発売されたレコードは60万枚という空前の大ヒットを記録した
 -しかし、1970年1月、クビショヴァは音楽界から永久追放され、レコードは発売禁止となった
・社会主義圏で歌われた2つの「Hey Jude」は、この20数年後、革命の原動力となっていく

(ビートルズは解散したが、ビートルズ革命はまだ終わらない)
・1970年4月、激動の60年代が終わるとともにビートルズは解散した
 -ビートルズの活動期間は7年7ヵ月だった

・しかし、ビートルズの革命はまだ終わっていなかった
 ソ連:
-1985年、ゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連ではロックへの規制が解かれた
-ビートルズのコピーバンドを取り上げたテレビ番組で、バンドは「Can`t buy Me Love」にロシア語の歌詞を乗せ、更なるソ連の変革を訴えた
エストニア:
 -1988年、ソ連の構成国、エストニアでは30万人もの観客が集まるライブが行われたが、その中心人物はイヴォ・リンナ、20年前、「Hey Jude」をカバーした若者は国民的シンガーとなっていた
-リンナは観客と共にソ連からの独立を求める歌を歌い、この出来事は「歌う革命」と呼ばれ、更に独立運動が燃え盛っていく
チェコスロバキア:
-1989年11月、共産党の支配が続いていたチェコスロバキアでも革命が起きた
-無血革命が果たされた日、「Hey Jude」を歌い、音楽界を追放された歌手、マルタ・クビショヴァが人々の前に現れた
-チェコの人々は禁じられてきたクビショヴァの「Hey Jude」を20年ぶりに、高らかに歌った

(解散後のビートルズ)
・ビートルズ解散後も再結成の噂がたびたび流れては消えていた
・1980年12月8日、ジョン・レノンがファンを名乗る男の凶弾に倒れ、亡くなった
・21世紀、最初の年、2001年11月29日、ジョージ・ハリスンが肺がんでこの世を去った
・そしてビートルズは2人になった
・2023年6月、ビートルズ最後の新曲を今年(2023年)発表すると、ポールが明かした
-その曲「Now And Then」はジョンが取り組んでいたデモである
-AIの力を借りて純粋なジョンの声を得ることが出来た

(ジョン・レノンの生前の言葉)
・ビートルズは、この世界をどう変えたのか。ジョン・レノンはその死の5年前(1975年4月4日)、フランスのテレビ局のインタビューに対し、こう語っていた
「60年代は“新しい世界を発見しに行く船”だった。」
「そしてビートルズは、その船の見張り台に立っていただけだ。」
「僕たちが何に貢献して、何に貢献しなかったのか、僕には分からない。」
「人それぞれビートルズから受けた影響の度合いは違うだろうしね。」
「言えるのは僕たちの世代が全員で60年代という船に乗り、新しい世界へ行ったということだ。」


こうしてまとめてみると、今更ですが、「やっぱりビートルズ革命はすごかった」の一言です。
そして、ビートルズは音楽の持つ、とても大きな可能性を証明してくれました。
また、この本質をジョン・レノンは生前にフランスのテレビ局のインタビューで言い得ていたと思います。
60年代は“新しい世界を発見しに行く船”で、ビートルズはその見張り台に立っており、その船の漕ぎ手、あるいは乗客は私たちだったのです。

ちなみに、この番組の中で、ビートルズについて語った人物を登場順に以下に並べてみました。
アメリカ大統領、バラク・オバマ
ミュージシャン、ブルース・スプリングスティーン
エリザベス女王
グリゴリー・ヤブリンスキー元ロシア共和国副首相
ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン
ミュージシャン、スティング
ミュージシャン、デヴィッド・ボウイ
レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ
ピンク・フロイドのロジャー・ウォータース
ミュージシャン、バート・バカラック
イギリスの作家、ニック・コーン
モデル、ツイッギー
ミュージシャン、キャロル・キング
アメリカの作家、バーバラ・エーレンライク
黒人ミュージシャン、スモーキン・ロビンソン
キング・クリムゾンのロバート・フリップ
オアシスのノエル・ギャラガー
ミュージシャン、ルー・リード
日本の美術家、横尾忠則
アップルの創業者、スティーブ・ジョブズ
マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツ

ビートルズは、このような世界的に著名なそうそうたる方々に影響を与えたのみならず、国や社会のあり方にも大きな影響を及ぼしたのです。
こうしたビートルズのような存在は歴史的にこれまでいなかったのではないでしょうか。
また、世界中の多くの人たちを感動させたり、元気にしたり、やる気にさせてしまう人物として、プロ野球の大谷翔平選手もビートルズ同様に稀有な存在だと思います。

なお、ポール・マッカートニーは「僕のやっていることの多くがリトル・リチャードや、彼のスタイルのおかげなんだ」とおっしゃっています。
ですから、ビートルズはリトル・リチャードや、彼のスタイルの模倣から生まれたのです。
そういう意味で、リトル・リチャードはビートルズ誕生の“陰の功労者”と言えます。
また、ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインはビートルズの5人目のメンバーと言われるほど、ビートルズの成功にとって、かけがえのない存在でした。(添付参照)

ここで思い出されるのは「アイデアは既存の要素の組み合わせである」というアイデアの定義です。
どんなに才能があっても、一人だけで物事を達成することは出来ないのです。
これまでのアイデアの積み重ねの上に、更に優れた才能の組み合わせによって物事は成し遂げられるのです。
ですから、ビートルズもこうした枠組みの中で、成功を収めることが出来たのです。

さて、今の国際社会を俯瞰すると、時代が逆戻りしつつあるのではないかと思うくらい、戦争や紛争が世界のあちこちで起きており、一方で実質的な独裁政権国家も生まれています。
こうした国際社会を本来のあるべき方向に軌道修正させるうえで、ミュージシャンに限らず、世界中の人たちを引き付ける、情報発信力のある政治家など、ビートルズのような存在の登場が求められます。


添付)

ブライアン・エプスタインはビートルズの5人目のメンバーと言われた?
ChatGPT
ブライアン・エプスタインはしばしば「ビートルズの第5のメンバー」と呼ばれることがありますが、これは彼がビートルズのマネージャーとして非常に重要な役割を果たしたためです。エプスタインはビートルズの初期から彼らのマネージャーを務め、彼らの成功において不可欠な存在でした。彼は彼らのキャリアを成功に導くために重要な戦略を立て、彼らのイメージを整え、プロモーションを行いました。彼の尽力により、ビートルズは世界的なスーパースターへと成長しました。

そのため、ビートルズの歴史において、ブライアン・エプスタインはまさに「第5のメンバー」として扱われることがあります。彼はメンバーと同じくらい、バンドの成功に貢献した重要な人物であったとされています。

 
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