2021年03月26日
アイデアよもやま話 No.4913 ”イマジン”は生きている!

昨年12月24日(木)放送の特別番組(NHK総合テレビ)で「“イマジン”は生きている ジョンとヨーコからのメッセージ」(59分版)をテーマに取り上げていました。

そこで今回は、今でも色あせないビートルズのジョン・レノンと前衛芸術家のオノ・ヨーコ、このお二人からのメッセージについてその一部をご紹介します。

なお、日付は全て番組放送時のものです。

また、今回はいつもに比べてかなりの長文になりますが、ざっとでも最後まで読んでいただければ幸いです。

 

ジョンは次のようにおっしゃっています。

「(ヨーコとの)恋に落ちる前にお互いの共通点を探したんだ。」

「彼女と僕は違う世界で生きてきたからね。」

「二人がたどり着いた言葉は“ラブ・アンド・ピース”。」

「そして決めたんだ、「見ているだけではなく、行動を起こそう」と。」

 

これほど強い絆(きずな)で結ばれたカップルがいただろうか?

ビートルズのメンバーだったジョン・レノンと日本生まれの前衛芸術家、オノ・ヨーコ、二人は激動の1970年代に愛と平和を訴え続けてきました。

ジョンは次のようにおっしゃっています。

「殺し合いのない世界になったら、どんなにいいと思いませんか?」

「皆さん、平和を願うなら自分からメッセージを発信して下さい。」

 

またヨーコは次のようにおっしゃっています。

「私たちは皆、同じ世界にいるのです。」

「家族のように小さな地球で暮らす運命共同体なのです。」

「何があってもともに乗り越えていかなければなりません。」

 

二人の怒りは数百万もの犠牲者を出しながら、ベトナムでの戦争を止めようとしないアメリカ政府、一向に解消されない人種差別に向かいました。

1980年、ジョンが40歳の若さで亡くなった後、二人の歌とメッセージは時空を超え、多くの人々を勇気付けています。

2020年5月、国家安全維持法の導入を巡り、大きく揺れ動いた香港、市民が言論の自由を求めてメモを貼りつけた場所はレノン・ウォールと名付けられました。

香港住民のある男性は次のようにおっしゃっています。

「今、香港周辺では200ヵ所以上のレノン・ウォールが出現しています。」

「デモに参加する人、その支援者、人々の情報交換の場になっています。」

 

パンデミックによって2ヵ月半のロックダウンを強いられたニューヨーク、8月に再開したメトロポリタン美術館は人々をヨーコの新作を掲げて迎えました。

「Dream Together(一緒に夢をみよう)」

 

館長のマックス・ホラインさんは次のようにおっしゃっています。

「「Dream Together」はとてもオープンで力強いメッセージです。」

「人々が団結し、そのパワーで世界を作り上げていこうという信念です。」

「想像も出来ないことが起こっている今、ヨーコのメッセージが必要なのです。」

 

2020年はジョンの生誕80年、没後40年のメモリアルイヤーです。

ジョンとヨーコ、二人の激動の人生をたどる「ダブル・ファンタジー展」がヨーコの故郷、東京で開催されています。(1月11日(月)まで開催)

昨年までジョンの故郷、イギリス・リバプールでも開催され、70万人が来場しました。

二人の出会いのきっかけとなったヨーコのアート作品や名曲が生まれた背景を物語る貴重な品々、約100点が展示されています。

ビートルズ時代のファンからリアルタイムでは知らない若い世代まで多くの人が足を運んでいます。

 

ジョンは「より良い世界を作るのは人間の義務なんだ」という言葉を残しています。

 

1969年、結婚式をあげたばかりのジョンとヨーコは新婚旅行に出かけました。

この時、ジョンは28歳、ヨーコは36歳でした。

新婚旅行先のオランダに大勢のマスコミが押し掛けることを予測した二人はあることを企みました。

二人はホテルの部屋を記者たちに開放し、“愛と平和(Love&Peace)”について語り合う場にしたのでした。

後に世界で最も有名なパフォーマンスと呼ばれることになるイベント、“ベッド・イン”です。

この時、二人は次のようにおっしゃっています。

「ハネムーンの代わりに7日間ベッドで過ごして抗議します。」

「世界中で起こっている暴力に対して、戦争を起こすよりベッドで春を楽しみましょうと言いたいの。」

「平和になるまで髪の毛を伸ばすんだ。」

 

「僕らのセックスを撮ろうと世界中から記者が押し寄せて来た。」

「ドアを開けたら、先を争って入って来た。」

「僕らは天使のように座って「ハローみんな、平和を」。」

「みんな、がっかりしてた。」

 

当時、ベトナム戦争が長期化し、反戦の機運が世界中で高まっていました。

 

15分ごとに世界各国の記者やテレビクルーが入れ替わり、反戦活動家や知識人、アメリカ軍の脱走兵までもぐりこんだといいます。

中には売名行為だと不快感を露わにする人もいました。

こうした状況について、ジョンは次のようにおっしゃっています。

「戦争や平和について話すと、「頭がおかしい」と言われるんだ。」

「「ステージで踊ってろ」、「エンターテイナーなんだから出しゃばるな」とね。」

 

二人はどう言われようと、テレビや新聞で“平和”という言葉が一つでも多く取り上げられればいいと考えていました。

 

オランダに続き、カナダで行われた“ベッド・イン”で二人は居合わせた人とともにレコーディングを行いました。

歌詞はジョンが記者たちとの会話をもとに即興で書き上げたものでした。

その時に書かれた歌詞「平和を我等に(Give peace a chance)」、ジョンは次のようにおっしゃっています。

「みんな「ベッドの中で何をしてるんだい?」と聞いてくるから、「平和にチャンスを与えるんだよ」という言葉を思いついたんだ。」

 

ジョンはビートルズ時代からいつかみんなで合唱出来るような曲を作りたいと考えていたといいます。

半年後、この曲はジョンの願い通りとなりました。

1969年11月、アメリカ・ワシントンで開かれたベトナム反戦集会での出来事でした。

30万人の参加者が声をそろえて歌ったのが「Give peace a chance」でした。

 

さて、ビートルズの最後のツアーから3ヵ月後の1966年11月、ジョンはロンドン市内で開かれていたヨーコの個展を面白半分の気持ちで訪ねました。

その時の気持ちを次のようにおっしゃっています。

「何か不思議なものがディスプレイされてた。」

「ハンマーや釘、そんなものが沢山。」

「はしごがあって天井には真っ白なキャンバスがあった。」

「ぶら下がっていたのは虫眼鏡だ。」

「はしごを上って虫眼鏡で覗いてみると、“YES”と書かれていた。」

「僕はとてもポジティブなメッセージを感じたよ。」

 

作者のオノ・ヨーコは当時33歳、日本生まれでニューヨークで前衛アート作家として活動していました。

オノ・ヨーコはジョンとのインタビューで次のようにおっしゃっています。

Q:あなたはビートルズ、それともジョンのどちらのファンなのか?

A:どちらでもないわ。

 

オノ・ヨーコの作品はニューヨークやロンドンでは高く評価されました。

しかし、前衛アートを楽しむのはごく限られた人でした。

当時について、オノ・ヨーコは次のようにおっしゃっています。

「私は消えてしまうギリギリのところにいたの。」

「どの作品も観念的過ぎて。」

「でもジョンが現れて「なるほど、僕には分かる」と言ってくれた。」

「その一言で消えるはずのものが残ったの。」

 

ジョンもヨーコとの出会いに運命的なものを感じていました。

そして次のようにおっしゃっています。

「ものすごくホッとしたんだ。」

「僕と同じぐらい変な人に出会えたね。」

「僕のそういう部分をヨーコが暗闇からずり出してくれたんだ。」

 

孤独なものを抱えた者同士が「YES」という言葉を介して出会い、結ばれたのでした。

ヨーコの自由な表現方法に刺激されたジョンはビートルズの中で新たな曲づくりに踏み出していきました。

そして、ビートルズの決定的な変化が起こっていきました。

4人のメンバーの結束は失われ、1970年、ビートルズは事実上解散しました。

 

ジョンはヨーコを通じて日本文化に興味を持ち、たびたび日本を訪れていました。

そしてジョンは禅画にも深い興味を示したといいます。

日本文化の中で特にジョンの心を捉えたのは俳句でした。

そして次のようにおっしゃっています。

「俳句は今でも僕が読んだ中で最も美しい詩だと思う。」

「僕ももっと歌詞を俳句のようにシンプルにしていきたいね。」

 

「僕の新しいアルバム(「ジョンの魂」)は歌詞も音楽もとてもシンプルなんだ。」

「禅の精神がある気がする・・・」

「このアルバムはシブい。」

 

このアルバムには俳句の影響を受けて作ったという曲があります。

「LOVE」です。

修飾をそぎ落とした歌詞が美しいメロディに乗せられています。

 

愛は真実、真実は愛、愛は感覚、愛を感じること、

愛とは愛されたいと願うこと

・・・

 

ロンドンの郊外、ティッテンハースト、1971年春、ジョンは都会の喧騒から離れたこの地に自宅兼スタジオを構えました。

ジョンはここで信頼するミュージシャン仲間との音楽づくりに没頭しました。

そんな環境で今日も歌い継がれる奇跡のような一曲が生まれました。

ニューヨークのヒルトンホテルのメモ用紙に殴り書きされた歌詞の原稿、「イマジン」です。

 

想像してごらん、天国なんてないと

その気になれば簡単さ

僕らの足元に地獄はなく

頭上にはただ空があるだけ

想像してごらん、全ての人々が今日のために生きていると

 

想像してごらん、国なんてないと

そんなに難しいことじゃない

殺したり、死んだりする理由もなく

宗教さえもない

想像してごらん、全ての人々が平和な暮らしを送っていると

 

国の違い、宗教の違い、そうした違いに関係なく全ての人が平和に暮らす世界

まずは想像することから始めよう

 

 

「イマジン」誕生の裏側には長い間知られていなかった物語があります。

ヨーコの詩集、「グレープフルーツ」、ジョンと出会う2年前、東京で出版したものです。

 

想像してごらん、雲がしたたり落ちて来るのを

庭に穴を掘ってその雲をしまってごらん

 

「イマジン」の「想像してごらん」という言葉が何度も繰り返されています。

「イマジン」の歌詞と全く同じスタイルなのです。

「イマジン」の歌詞はヨーコの詩からインスピレーションを得たものでした。

しかし、ジョンはヨーコの名を共作者としてクレジットすることはありませんでした。

ジョンはこのことについて、1980年12月6日のインタビューで次のようにおっしゃっています。

「ヨーコの名もクレジットするべきでした。」

「歌詞と曲のコンセプトの大部分はヨーコのものだ。」

「でも当時の僕は自分勝手で生意気で彼女の貢献を公にしなかった。」

「今更だけど、彼女の貢献を認めたい。」

 

「イマジン」について、ヨーコは次のようにおっしゃっています。

「なぜジョンの曲が心に響くのか、それは誰もが歌えるシンプルな曲だから。」

「ジョンの歌はみんなの歌です。」

「心臓の鼓動のようにね。」

「だから伝わるんです。」

「頭じゃなく、ジョンの心からストレートに出ているから。」

 

ジョンは政治的なメッセージどうすればより多くの人に届けられるか、周到に計算していました。

「「イマジン」はすごく政治的な歌だけど、子ども向けの歌みたいに書いたんだ。」

「子どもに話しかけるような気持でね。」

「「イマジン」は甘い砂糖で包んであるんだ。」

「言いたいことは変わっていない。」

「宗教も国も政治対立もない世界を、と歌っている。」

「だけど砂糖に包まれているから、世界中のどんな立場の人にも受け入れてもらえるんだ。」

 

発表から実に46年が経った2017年、「イマジン」はジョンとヨーコの共作と正式にクレジットされました。

既にジョンは亡くなっていました。

その発表の場でヨーコは目に涙を浮かべて喜んでいたといいます。

そして次のようにおっしゃっています。

「今考えてみれば、私たちの出会いは「イマジン」をつくるためにあったのです。」

 

「イマジン」は争いが起き、世界が憎しみに覆われるたびに繰り返し歌われています。

2001年のアメリカ同時多発テロ、テロリストのみならず、イスラム教徒への憎悪をむき出しにするアメリカで「イマジン」を歌う人々が数多く現れました。

そして2015年フランス同時多発テロ、2012年のロンドンオリンピックでも。

 

1971年9月、ジョンはヨーコとともに故郷、イギリスを離れ、ニューヨークに移り住みました。

イギリスとは違う、多民族が生む文化の多様さは二人を夢中にさせました。

 

アメリカには世界一有名な反戦運動家のジョンを待ち構えていた人たちもいました。

渡米から3ヵ月後、左翼活動家のジェリー・ルービンに誘われ、ジョンとヨーコはあるコンサートに出演しました。

警察のおとり捜査で捕らえられ、懲役10年の刑を受けていた反戦活動家、ジョン・シンクレア、その釈放を求めるチャリティコンサートです。

ジョンは新曲、その名も「ジョン・シンクレア」を歌いました。

 

この時、コンサート会場で二人の行動をつぶさに監視している人物がいました。

連邦捜査局、FBIの捜査員でした。

ジョンの死後に公開された、通称「レノンファイル」、500ページを超える膨大な報告書です。

コンサートに潜入したFBI捜査員はシンクレア釈放を求めるジョンの歌の歌詞を全て書き取り、上層部に報告していました。

コンサートは全米にテレビ放映されていました。

ジョンの歌は即座に世論を動かしました。

そしてコンサートの48時間後、ジョン・シンクレアは釈放されました。

 

FBIはこのコンサートの後、ジョンの監視を強化していました。

ファイルはジョンについて次のように結論づけています。

「ジョン・レノンは新左翼勢力の一員であり、危険人物である。」

 

ニクソン政権はFBIを利用して反戦運動を厳しく弾圧していました。

そしてニクソン大統領はこんな発言まで行っていました。

「ショービジネスの人間が政治集会に参加すれば、その人物は個人的に大きな犠牲を払うことになる。」

「身の危険もあり得る。」

 

シンクレアコンサートへの出演から3ヵ月後、二人のもとにアメリカ政府からの文書が届きました。

発行はアメリカ移民局、「60日間以内に出国しなければ不法移民とみなす」、事実上の国外退去命令でした。

アメリカ政府が国外退去の理由としたのは3年前のイギリスでの薬物所持の逮捕歴でした。

ジョンとヨーコはメディアを通じ、繰り返し移民局に抗議しました。

 

この頃、ジョンがよく身に着けていたアメリカ軍のアーミージャケット、偶然出会ったベトナム帰還兵からもらったものです。

自らを労働者階級のヒーローと語っていたジョン、戦争に反対しながらも、いやおうなく戦場に駆り出される若者たちと連帯するため、このジャケットで皆の前に立ったのです。

そして次のようにおっしゃっています。

「兵士たちを故郷に帰そう。」

「兵器も一緒にだ。」

 

「(あなたにとって音楽とは?、エンターテインメントは人々を啓もうするもの?という問いに対して、)コミュニケーションだよ。」

「人々と対話したいんだ。」

「政治というのはそこら中にある。」

「無視することは出来ない。」

「アーティストである以上、無関係ではいられない。」

「花を手にしながら、最前線に最後までいるつもりだ。」

 

1974年8月、ジョンにとって大きな追い風が吹きました。

天敵とも言うべきニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任したのです。

翌年、ニューヨークの最高裁判所はジョンの国外退去命令を破棄しました。

1976年7月、ジョンのもとにアメリカの永住権、グリーンカードが届けられました。

 

1975年10月9日、ジョンの35歳の誕生日、ジョンは幸せの絶頂にありました。

息子、ショーン・タロー・オノ・レノンが生まれたのです。

この時、ヨーコは42歳、3度の流産を乗り越えての出産でした。

ジョンはショーンと二人でバミューダ諸島に旅行にも行きました。

 

ショーンが生まれた後、ジョンは大きな決断をしました。

音楽活動を止め、家庭に入ってハウスハズバンド、主夫になることを決めたのです。

抱っこ紐でショーンを背負い、5年間、家事と育児に専念したのです。

ジョンは当時について次のようにおっしゃっています。

「自分のキャリアを優先して、子どもにかまわないのは良くないよ。」

「僕は最初の結婚でそうしてしまった。」

「それを後悔しているんだ。」

 

実は、ジョンは22歳の時、最初の結婚で息子、ジュリアンをもうけていました。

しかし、当時はビートルズの人気絶頂の時代、子育てに係ることは出来ませんでした。

ジョンは、ヨーコが仕事をしている間、家事と育児に全ての時間を捧げました。

 

今でこそ男性が子育てや家事に積極的に係るのが当たり前になったが、当時そんな生き方はほとんど理解を得られませんでした。

しかし、ハウスハズバンドの生活が4年ほど続いた頃、4歳になっていたショーンがジョンの心に変化を起こしました。

友達の家で聴いたビートルズの曲を口ずさむようになったのです。

ショーンは父親がビートルズのメンバーだったことを初めて知ったのです。

ジョンの中に、ショーンに音楽をつくる父親の姿を見せたいという気持ちが沸き上がったのです。

そして次のようにおっしゃっています。

「5年間家庭に閉じ困ってきたから、音楽について全く考えていなかったんだ。」

「ギターは壁にかけっぱなしだった。」

「それを壁から下したんだ。」

 

1980年11月、ジョンはヨーコとの共作のアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表しました。

5年ぶりの作品でした。

 

共に分け合う二人の人生はとても尊い

僕たちは共に成長した

二人の愛は今でも特別なものだけど

あえて冒険してみないか

それぞれ新たな空へ飛び立つんだ

 

全14曲、ジョンとヨーコの曲が半分ずつ交互に並べられています。

文字通りの共作でした。

ジョンは次のようにおっしゃっています。

「僕らにとって、これはスタートだと感じている。」

「僕らのファーストアルバムだよ。」

「昔から一緒にいろんな曲を作ってきたけど、これがファーストアルバムのような気がするんだ。」

「今日より前は何もなかったように感じるよ。」

 

「ダブル・ファンタジー」は世界中で絶賛されました。

ジョンはワールドツアーに出ることも計画していました。

 

そして運命の1日が来ました。

発売から3週間後のことでした。

1980年12月8日、午前11時、雑誌の写真撮影のため、カメラマンが二人が住むアパート、ダコタハウスを訪れました。

後にアメリカを代表する肖像写真家となるアニー・リーボヴィッツです。

この時、リーボヴィッツが撮った写真はローリング・ストーン誌の表紙を飾りました。

今も人々の記憶に残る伝説の写真です。

午後2時、今度はサンフランシスコからラジオ局の記者が取材に訪れました。

この日のインタビューはジョンの最後の言葉となりました。

午後5時、ジョンはインタビューを終え、ジョンとヨーコはレコーディングのため家を出ました。

いつも玄関にはファンが待っていました。

クルマに乗り込もうとしたジョンの姿をファンのカメラが捉えていました。

ジョンは発売されたばかりのレコードを手にした若い男性に気付き、サインをすると、「これが欲しかったのかい?」と声をかけたといいます。

 

ジョンとヨーコが仕事を終え、スタジオを出たのは午後10時、遅い夕食を取りに出かける前、ジョンはショーンの寝顔を見るために一度自宅に立ち寄ることにしました。

午後10時50分、ダコタハウスの玄関を入ろうとした時、ジョンは4発の銃弾を受けました。

撃ったのは5時間前にジョンからサインをもらったあの若い男性でした。

「有名になりたくてジョンを殺した」と男性は後に述べています。

世界中が悲しみに暮れました。

 

ジョンの死から4ヵ月後、ヨーコはジョンが撃たれた時にかけていたメガネを窓辺に置き、カメラを向けました。

毎年、ジョンの命日にその写真を掲げ、銃の規制を訴えています。

 

想像してごらん

人々がただ平和に暮らしているところを

僕は夢想家だと思うかもしれない

だけど僕ひとりじゃないはずさ

いつの日か 君も僕らに加われば

世界は一つに結ばれる

 

二人の人生をたどる「ダブル・ファンタジー展」、ジョンの命日の12月8日、ここでも大勢のファンが花を手向けていました。

もし、ジョンが生きていたら2020年を終えようとする私たちにどんな言葉を差し出してくれたでしょうか。

この展示会に訪れた男性は次のようにおっしゃっています。

「ジョンとヨーコに申し訳ないなと思っている節がありまして、ずっと前から平和活動をされていたのに、未だにこういう状況、あなたたちもその一つであることが出来るよと言ってくれている感じが伝わって、何か勇気をもらいました。」

 

世界が危機に覆われるたびに、歌われて来た「イマジン」が今また歌われています。

 

番組の最後は、インタビューに答えている次のジョンの言葉で締めくくっています。

「(時間の無駄だと思わないかという問いに対して、)そうは思わないよ。」

「今すぐ平和が訪れなくても、決して無駄じゃない。」

「(生きているうちは平和にならないかもという問いに対して、)いや、きっとなるさ。」

 

以上、番組の内容の一部をご紹介してきました。

 

そもそもジョンとヨーコの二人が恋に落ちる前のお互いの共通点として二人がたどり着いた言葉が“ラブ・アンド・ピース(愛と平和)”というのが哲学的というか、普通の人たちとは並外れています。

しかも、それをハネムーン中に“ベッドイン”というパフォーマンスのかたちで行動に移したのですから、いかにもアーティスト同士のカップルらしいです。

更に二人は激動の1970年代に愛と平和を訴え続けてきたといいますから、まさに“ラブ・アンド・ピース”の実戦的な活動家です。

また、ジョンは「より良い世界を作るのは人間の義務なんだ」という言葉を残していることからも、二人の怒りはベトナム戦争を止めようとしないアメリカ政府、そして人種差別に向かったことは頷けます。

 

さて、“ラブ・アンド・ピース”を音楽を通して象徴的に表現したのが「ラブ」と「イマジン」だといいます。

こうしたジョンの熱い思いは、世界中の多くの人たちの心に響き、2001年のアメリカ同時多発テロでのアメリカ、2015年フランス同時多発テロ、あるいは2012年のロンドンオリンピックで「イマジン」を歌う人々が数多く現れたのです。

更に、2020年5月、国家安全維持法の導入を巡り、香港でも市民が言論の自由を求めてメモを貼りつけた場所はレノン・ウォールと名付けられたのです。

こうしたことから、テレビや新聞で“平和”という言葉が一つでも多く取り上げられればいいと考えていた二人の想いは今でも叶えられていると言えます。

そして、「イマジン」はこれからも争いが起き、世界が憎しみに覆われるたびに世代を超えて繰り返し歌われていくと思われます。

まさに、「イマジン」は時代を超えて生き続けており、人類共通の大切な財産の1つと言えます。

 

一方で、現実には常に世界中のどこかで紛争が起きており、米中の覇権争いも今後どう展開していくか分からない状況です。

ですから、平和を求める世界中の市民の闘いは、ただデモをするだけでは済まない、とても厳しいものなのです。

しかし、救いもあります。

というのは、アメリカにしても中国にしてもその時々の政権は国民の声を全く無視して政権運営をすることは出来ないからです。

ですから、少なくとも国民の7割程度以上が声を大にして政権に訴え続ければ政権の意向を方向転換することは可能なのです。

恐らく、ジョンはこうしたことを分かっていて、世界中の少しでもより多くの人たちに“平和”の大切さを折に触れてアピールしたかったのだと思います。

それにしても平和を強く訴えていたジョンがファンによる銃弾に倒れたのはとても皮肉です。

 

さて、ジョンとヨーコ、二人の運命的な出会いは、ロンドンでのヨーコの作品展をたまたまジョンが訪れたことがきっかけといいますが、お互いの心の奥深くで求めていたものが「YES」という言葉を介していたというのはいかにもアーティスト同士の強烈な結びつきだったと思われます。

そして、ヨーコの自由な表現方法に刺激されたジョンはビートルズの中で新たな曲づくりに踏み出し、それが原因で4人のメンバーの結束が失われ、1970年、ビートルズは事実上解散したといいますから、ヨーコがジョンに与えた精神的な影響力は大変なものだったのです。

 

更にジョンはヨーコを通じて日本文化に興味を持ち、たびたび日本を訪れて、ジョンは禅画や俳句に深い興味を示したといいます。

そして、特にジョンの心を捉えたシンプルな表現の俳句が新しいアルバム、「ジョンの魂」の中の「LOVE」という曲の制作に影響を与えたといいます。

 

なお、発表から実に46年が経った2017年、「イマジン」はジョンとヨーコの共作と正式にクレジットされ、その発表の場でヨーコは「今考えてみれば、私たちの出会いは「イマジン」をつくるためにあったのです」とおっしゃっています。

「イマジン」はヨーコの詩集、「グレープフルーツ」の詩からインスピレーションを得てジョンが作ったのですから二人の平和に向けた熱い思いを表現した共作であり、二人にとってとても大切な歌であることが分かります。

 

またジョンは世界的なミュージシャンとして活動していたにも係らず、ヨーコとの結婚後、音楽活動を止め、家庭に入り、主夫になることを決め、5年間も家事と育児に専念したのです。

今でも多くの男性は自分のキャリアを優先して、育児は奥さんに任せるという傾向がある中で5年間も主夫として過ごしたのですから、ジョンは単なるミュージシャンとしてだけでなく、これからの結婚生活の夫婦のあり方についてもその先駆けでもあったわけです。

 

こうして見てくると、ジョンは偉大なミュージシャンとしてだけでなく、世界中の多くの人たちに影響を与える偉大な実践的平和活動家でもあったわけです。

そしてその伴侶であったヨーコもジョンに大きな影響を与えた、とても優れた前衛的アーティストとしてだけでなく、ジョンと同様に偉大な実践的平和活動家でもあり続けているのです。

 

ここで思い起こされるのは、これまで何度となく繰り返しお伝えしてきた、“アイデアは既存の要素の組み合わせである”という言葉です。

いろいろなアイデアの組み合わせにより、新しいアイデアが生まれるだけでなく、人と人との出会いがお互いに刺激し合い、お互いに新たな行動を引き起こさせることにつながるのです。

ですから、ジョンとヨーコとの出会いのように、私たちも外に向けて好奇心を持ち、いろいろな人との出会いを求めることはとても大切だと思うのです。

そこに新たな世界が待ち受けているのですから。


 
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