2017年02月14日
アイデアよもやま話 No.3626 あるゼロ戦乗りの遺言!

アメリカのトランプ大統領誕生に伴い、その極端な政策が世界各国に不安をもたらしています。

そればかりでなく国際平和に対する懸念ももたらしています。

そうした中、昨年12月12日(月)放送の「NNNドキュメント」(日本テレビ)で「ゼロ戦乗りの遺言 〜真珠湾出撃 原田要の肖像〜」をテーマにしていました。

そこで、今回は番組による一人のゼロ戦パイロットへのインタビューを通して番組の一部をご紹介します。

 

原田 要さんはおじいちゃん先生と呼ばれ、駆け寄って来る子どもたちを見守ってきた、長野市ひかり幼稚園の元園長です。

今から約75年前の1941年12月8日、旧日本軍はハワイの真珠湾を攻撃しました。

原田さんは当時25歳、ゼロ戦に乗って憧れていた戦場へと向かいました。

当時を振り返り、原田さんは次のようにおっしゃっています。

「私もハワイに行った以上ハワイ群島を空襲したいから是非俺にもやらせてくれと。」

「戦争の中に巻き込まれれば、好むと好まざるとに係わらず相手を殺さなきゃならないんです。」

「相手を殺さなきゃ自分が殺されてしまうんだから、これはしょうがないんですよ。」

 

終戦から半世紀近く過ぎた頃、原田さんはあることをきっかけにそれまで硬く心に閉ざしていた戦争の記憶を語り始めました。

そして、ある講演会で次のようにおっしゃっています。

「尊い人命を私くらい殺めた人間は恐らく今この平和な時代にはいないんではないか。」

 

「今、日本はこういう平和憲法で、しかも世界に向かって軍隊は持ちません、戦争はしません、これを次(の世代)に伝えるためには自分の死ぬまで一生懸命で、自分の見た戦争というものの罪深いことをしゃべることが私に与えられた最後の仕事ではないか。」

 

戦争とは殺し合い、原田さんの故郷に作った幼稚園では小さな子どもたちに命の尊さを説いてきました。

 

原田さんの総飛行時間はおよそ8000時間、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争では19機を撃墜しました。

少年時代に憧れていた戦闘機乗り、原田さんは、1933年、17歳の時に横須賀海兵団に入団しました。

その後、戦闘機の搭乗員を養成する霞ヶ浦航空隊に入隊し、首席で卒業しました。

そして1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃によりアメリカなど連合国軍との戦争が始まりました。

原田さんは空母「蒼龍(そうりゅう)」で真珠湾に向かい、ゼロ戦で出撃しました。

この時のことについて、原田さんは次のようにおっしゃっています。

「これに参加するということは日本の国民であり、特に軍人であって、しかもゼロ戦というパイロットの自分が立場にいる以上はこう行って戦って向こうをつぶすということが男冥利に尽きるんです。」

「もうこんな名誉なことはないし、自分の命なんかもうみんな差し出して戦うと。」

 

ところが、上官から命じられたのは真珠湾への攻撃ではなく、空母「蒼龍」を上空で守る任務でした。

このことについて、原田さんは次のようにおっしゃっています。

「(攻撃から)帰ってきた連中は鼻高々で、戦艦を沈めた、格納庫を爆破した、巡洋艦を追っかけまわした、そんな話でみんな、船の人たちも「やあ、ご苦労、ご苦労」でしょ。」

「我々一日中飛んでいた人間は小さくなって聴いている。」

「やだなあ、こんないやな思いはもうしたくないと思っていたところが・・・」

 

その4ヵ月後の1942年4月、待ちわびていたセイロン島沖海戦の空中戦に参加、イギリス空軍5機を打ち落としました。

この時のことについて、原田さんは次のようにおっしゃっています。

「一番頭に最初にくるのは、自分が殺されなくてよかったと。」

「どっちか殺されるんですからね、戦争ってやつは。」

「だから、相手を殺したから自分は殺されなくて済んだ。」

「その安堵感ていうんですか、よかったなあということ。」

「その次、相手に接近してどうやら落とした。」

「じゃあ、俺の方が良かったのかなあというちょっとした優越感。」

「(空中戦では敵機の背後に回り込み、10m、5mまで接近して打ち落とす、この時の状況について、敵機のパイロットは)いや辛そうな顔をするわけ。」

「誰だってそうですよ。」

「撃たれて火ダマになったり。」

「だから、恨めしそうな顔をして酷いなあというふうなことを私の方でははっきり見えるでしょ。」

「そうすると自分の境遇をすぐそれに置き換えちゃう。」

「彼も死にたくなかったんだろう。」

「それから家族もあったんだろう。」

「かわいそうだなあ。」

 

この時、原田さんには結婚したばかりの妻、そして生まれて間もない長男がいました。

 

真珠湾攻撃の半年後、1942年6月に始まったミッドウェー海戦、原田さんはゼロ戦で戦闘に加わりました。

ところが、アメリカ軍の猛攻を受け、日本の空母4隻が沈没、帰還する空母を失った原田さんのゼロ戦は海に不時着、4時間にわたり漂流しました。

そして、一度は漂流している兵士を置いて逃げた駆逐艦が夜中に助けに来てくれて一命を取り留めました。

しかし、そこで目の当たりにしたのは、戦争の現実でした。

「もうそれこそ地獄みたい。」

「狭い駆逐艦だけども、折り重なるように負傷した兵隊を満載しているんですよ。」

「焼けただれて手のない人、足のない人、顔が分かんない人、しかもそれがみんな生きててね。」

「「苦しい」、「助けてくれ」、「水くれ」、「早く殺してくれ」、とかいろんなこと言ってるんですよ。」

 

ミッドウェー海戦の後、一旦日本に戻った原田さんは妻子とのつかの間の再会を果たしてすぐ、激戦地ガダルカナル島へ向かいました。

敵の基地を目前にアメリカ軍の戦闘機と交戦、そして機体の破片と見られる金属が左腕を貫通、原田さんのゼロ戦はヤシの木をなぎ倒しながら不時着しました。

意識が朦朧(もうろう)とする中、脳裏に浮かんだことについて、次のようにおっしゃっています。

「自分の家内はどうなるんだろう、子どもはどうなるんだろう、それから自分の家庭はどうなるかなあ。」

 

さ迷い歩いたジャングルで撃墜された艦上攻撃機の搭乗員と出くわしました。

これが最後かなと思っていましたが、翌日、味方に発見され基地に収容されました。

帰国後は航空隊の教官に、そして29歳の時に終戦を迎えました。

 

原田さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「兵舎を爆撃している、飛行場の格納庫を爆撃、銃撃をしている、人の命をどのくらいとっているか分かんない。」

「何千人の命を撃ったか分からない人間がですね、今こうして生きているということに対する罪悪感、それが身を切られるように辛いんです。」

「でもそれは戦争だから仕方がない。」

「だから私は戦争くらい罪深いことはない。」

 

復員後は職を転々としながら家族を養いました。

そして、あることをきっかけに戦争をつぶさに語り始めました。

終戦から20年が過ぎた頃、当時自治会長だった原田さんは子供を預ける場所を作って欲しいと近所の母親たちから頼まれ、幼稚園を開園しました。

幼稚園では一貫して命の尊さを説いてきました。

そんな原田さんは、終戦から50年近く戦争の話をしませんでした。

しかし、湾岸戦争(1991年)が74歳の原田さんを変えました。

湾岸戦争をテレビニュースで見た若い方が漏らした「まるでテレビゲームのようだ」、「花火みたいだ」という感想に衝撃を受けたのです。

それまで誰にも話すことが無かったゼロ戦搭乗員という過去を明かし、戦争体験を語るようになったのもこれがきっかけでした。

 

原田さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「最初、私はもう戦争の話をするとね、こういう仕事ですからなんかあの男は元軍人だとか交戦支援者だとかそういうふうに見られると辛いから、なるべくそういうことを一切口にしなかったんですけども・・・」

「駆逐艦の地獄のようなことを知らないからテレビを見ても感じない。」

「じゃあ、我々戦争を見て一番感じた人間がそれを伝えなければいけない。」

「それから私は一生懸命しゃべるようになったんです。」

 

人を殺し合う罪の深さと自責の念、戦争の証言者として全国各地で100回以上講演を重ねてきました。

民間の船を爆撃したことも包み隠さず話しました。

講演では、数時間立ったままで話続けることもありました。

原田さんの次男は、講演の後は当時を思い出して苦しくなり、夜は苦しいと原田さんから聞かされていました。

 

終戦から70年目の一昨年8月11日、原田さんは99歳の誕生日(白寿)を迎えました。

番組の最後に原田さんは次のようにおっしゃっています。

「今どうやら日本を取り巻く世界が和やかな空気のように見えます。」

「ただし、私はこれは本当の平和の空気とは若干違うように自分の身体が覚えているから、それを何とか現実に再びああいういやな思いをさせない世界のために最後まで自分の信念を貫き通す発言をしなさいと・・・」

「今は日本は平和憲法で世界に向かって「軍隊は持ちません」、「戦争はしません」、次の世代の人たちがそういう嫌な思いをしないで済むような世の中になってもらいたいというのが私の最終的な祈りなんです。」

 

2016年5月3日、原田さんは永眠されました。(享年99歳)

 

以上、番組の内容をご紹介してきました。

 

まず、あらためて長年にわたって講演会を通して戦争の悲惨さ、そして平和の大切さを説かれてきた原田さんのご冥福をお祈りいたしたいと思います。

 

さて、番組を通して実際に太平洋戦争にゼロ戦パイロットとして多くの敵国の人たちの命を奪った経験のある原田さんのお話からあらためて戦争の悲惨さを感じ取れました。

個人個人のレベルで言えば、戦争には勝者も敗者もないのです。

勝者と言えども多くの命を失ったり、多くの負傷者を生んだり、そればかりでなく終戦後も戦争で敵兵を殺した人ほど罪の意識に苛まされる、あるいは戦死した兵の家族が大変な思いで暮らしていかなければならないというのが現実なのです。

 

そういう意味で、「今日本を取り巻く世界は和やかな空気のように見えるが、これは本当の平和の空気とは若干違うように思える」と原田さんが生前に感じていたことを私たちは重く受け止めて、再び日本が戦争に巻き込まれないようにしなければならないのです。

本格的な戦争に参加するようなことがあれば、今や先の大戦に比べて技術的に進化している兵器が使用されるのですからどれだけの被害が出るか分かったものではないのです。


 
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