幕末の変革者、吉田松陰についてはこれまで何度かこのブログで取り上げてきました。
そうした中、9月5日(金)放送の「THE
歴史列伝」(BS・TBSテレビ)で吉田松陰(1830〜1859年)をテーマに取り上げていました。
そこで、今回は番組を通して吉田松陰にみる教育の重要性についてお伝えします。
吉田松陰は強い志と行動によって多くの志士たちを導いた変革者です。
吉田松陰は黒船密航の企てによって1854年に野山獄に投獄され、牢獄生活を余儀なくされました。
そこは、生きて出た者のいない絶望の監獄でしたが、絶体絶命に陥った吉田松陰は思わぬ才能を発揮することになりました。
当時、野山獄には吉田松陰の他に11人の囚人がいましたが、いずれもただ死を待つのみで自暴自棄となった者ばかりでした。
そんな絶望の獄中で、吉田松陰は囚人たち一人一人に語りかけ身の上話を聞き始めました。
これをきっかっけに、囚人たちは俳句や漢詩などそれぞれの得意分野を教え合うようになりました。
なんと看守までもがその場に混ざり、絶望の牢獄は笑い声に包まれたといいます。
この奇跡のような出来事に誰よりも驚いたのは吉田松陰自身でした。
そして、つぎのような詩を詠んでいます。
「人賢愚あると雖も各々一、二の才能なきはなし」
野山獄に入って1年あまりが過ぎた1855年12月、恩赦により蟄居の身となった吉田松陰に教育者としての転機がやってきました。
ちなみに、恩赦となったのは牢獄の管理者がこうした吉田松陰に感動して嘘をついたことにあります。
吉田松陰は健康を害し、ここでは到底養生できず、死に至る恐れもあるので実家に帰して養生してもらった方がいいという上申書を出したのです。
野山獄で出て以来、吉田松陰のもとには毎日のように村の若者たちが集まってきました。
獄中での奇跡が噂となって広まり、教えを乞いにやってきたのです。
吉田松陰は、「これこそわが天命だ、日本の西端にある長州の松本村、ここから日本を、世界を変える青年たちを育て飛び立たせよう」と思い立ちました。
こうして教育者、吉田松陰の新たな挑戦が始まりました。
吉田松陰が若者たちに教えた松下村塾(山口県萩市)は元々あった8畳の小屋と塾生たちが自ら増築した10畳半の小さな学び舎でした。
塾生は貧しい農民の子から上級武士の子息まで身分も様々でしたが、吉田松陰は志ある者であれば分け隔てなく誰でも受け入れたといいます。
吉田松陰は自らの教育方針を次のように記しています。
「松本村は田舎だが、日本の中心を担う人材を生み出すと誓う」
迫りくる欧米列強の脅威に対抗できる人材を必ずや輩出してみせるという強い決意とともに若者たちと向き合っていきました。
何より重視したのは塾生たちの個性でした。
共通の教科書を使わず、日本史から農学、経済、兵学にいたるまで一人一人の適性を見極め、それに合わせた書物を渡しました。
長所をとことん伸ばすという個人指導が後に日本を背負う個性豊かな塾生たちを生み出していきました。
更に重きを置いたのは最新時事をテーマにした徹底討論の授業、外国との条約交渉など日本が抱える問題に対し、一人の日本人として何が出来るのかほぼ24時間熱い議論を繰り広げました。
意見を互いにぶつけ合うことが混迷の時代を変えていく力となると吉田松陰は信じていました。
このような教育について、東京学芸大学で日本近世史専攻の大石
学教授は、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「まさに幕末の白熱教室で、夜を徹してでも自分の意見をぶつけ合うわけですが、それはいつも社会状況だったり国家のあり方だったり政治のあり方だったりということですね。」
「それは学問のための学問ではない、社会とリンクするための学問というのを常に意識しているので非常に効果のある教育の仕方だと思います。」
松本村の小さな学び舎、松下村塾で吉田松陰が教えたのは、わずか1年数か月でした。
ところが、この短い期間に維新の志を持ち、後に近代日本の礎となる92名の人材が育っていきます。
ちなみに、その内訳の一部では総理大臣2名、大臣4名、県知事4名です。
そして、後に総理大臣となった伊藤博文、山縣有朋はともに足軽の子でした。
やがて、吉田松陰は「この松下村塾から必ず天下を動かす奇傑の人物が出るだろう」と自負するようになります。
作家の童門
冬二さんは、吉田松陰の教育法について番組の中で次のようにおっしゃっています。
「違う長所と違う長所の相乗効果を狙って、一人で考えたり何かするということをさせないんですね。」
「必ず組み合わせる。」
「自分の考えをまとめたらだれだれ君と話したまえ、そこで一つの結論が出たら、今度は大衆討議で全員の討論会を開いてそこで意見を問いたまえ。」
「で、どうしてもまとまらない時に僕なりの考えを述べるよ、と。」
「僕は決して教える立場ではない、君たちと一緒に学ぶ立場なんだ、と。」
「だから、この人は師という立場をとらないんです、学僕なんですね。」
「だから、日本の中でもこういう自由な教育を行っていた塾はほとんどない、皆無ですね。」
吉田松陰がその短い生涯の中で貫き通した一つの信念、それは「至誠にして動かざる者は未だ之有らざる也」です。
誠実を尽くせば、例え敵であっても心を動かさない者はいない、中国、戦国時代の学者、孟子の言葉です。
さて、吉田松陰老中暗殺計画の自供による斬首刑の2日前に塾生たちに宛てた遺書「留魂録」が今も大切に保管されています。
その冒頭の句「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」はとても有名です。
5千字にも及ぶこの遺書は、死を前にしても乱れることなく書かれ、憂国の想いに貫かれています。
「人生は四季に似ている。」
「十歳で死ぬ者には十歳の、五十歳で死ぬ者には五十歳の四季がある。」
「塾生たちよ、いよいよ私の四季にも実りの時が来た。」
「しかし今ここで命を終える私を悲しむことはない。」
「この三十年の短い一生でも花が咲き、実を結んだと信じている。」
「そして私の種を、志を受け継いでくれると信じている。」
吉田松陰の「留魂録」、その一語一語が塾生たちの魂を揺さぶり、時代を切り開いていったのです。
さて、あらためて驚くのは松下村塾での吉田松陰による教育期間はわずか1年数か月ほどだったということです。
しかも、学んだ塾生は特別に優秀な者たちというわけではありませんでした。
この松下村塾からその後の日本の発展を支える人材がこれほど沢山育ったという事実は奇跡と言えるのではないでしょうか。
勿論、自分から進んで松下村塾の門をたたいた若い人たちの志の高さ、やる気もありますが、吉田松陰の教育者としての優れた能力があったからこそこの奇跡は生まれたのだと思います。
吉田松陰の教育法は今でも少しも古さを感じさせず、まさに教育の原点だと思います。
今の教育に求められているのは、まず学びたい者には誰でも学ぶ機会を与えられること、何のために学ぶのかを学ぶ者に自覚させ、学ぶ者のレベルに応じて教え、そして自分で考え、相互に自分の意見を競わさせる対話の機会を設けることだと思うのです。
そのためには、教える側がこうした教育の持つ力、そして重要性を自覚することから始めなければなりません。
現在においても、教師の教え方次第で教わる側の誰もがそれぞれの持つ潜在能力を存分に発揮させることが出来るということ、すなわち教育の重要性を吉田松陰は私たちに示してくれているのです。
最後に、当時来航した黒船のペリー提督は、23歳の吉田松陰が黒船に乗り込んできた時のことについて驚くべき言葉を残していますので以下にご紹介します。
「この事件は、知識のために命まで賭けてしまう日本人のすさまじい好奇心によって起きた。」
「この国の未来はなんと希望に満ち溢れていることだろう。」
ペリー提督は吉田松陰のこの時の命を顧みない行動からその後の日本の発展を予見していたのです。
その予見通り、日本は文明開化、そして和魂洋才、富国強兵により大きな発展を遂げました。
そして、そこには松下村塾の塾生の活躍も大きく係わっていたのです。