2021年06月16日
アイデアよもやま話 No.4983 イチゴ産地、復活の夢!
3月9日(火)放送の「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)でイチゴ産地の復活について取り上げていたのでご紹介します。

伊勢丹新宿店の青果売り場に置かれているミガキイチゴ”という名のブランドイチゴについて、番組ではこのイチゴを作り出した農業ベンチャーの取材を2014年から続けてきました。
イチゴ産地はあれからどう変わったのでしょうか。

宮城県南部の沿岸部にある山元町、イチゴの産地として知られていましたが、沿岸に立ち並んでいたハウスは津波で壊滅状態になりました。
129軒のイチゴ農家のうち廃業に追い込まれたのは125軒に及びました。
故郷のイチゴ生産を復活させようと、震災の翌年、34歳の時に農業生産法人、株式会社GRAを立ち上げた岩佐大輝さんは世界最先端の栽培方法でイチゴ産地の復活を目指しました。
岩佐さんは次のようにおっしゃっています。
「リアルタイムでイチゴにとって最高な環境が実現出来るので・・・」

栽培棟の湿度が足りなくなるとミストを自動で噴射、夜ハウス内の温度が下がると天井のカーテンが自動で閉まります。
実は岩佐さん、震災前はIT関係の会社を経営していました。
その知識を使い、徹底的に省力されたイチゴ栽培を実現させたのです。
最先端の農法で栽培されたイチゴは早くから百貨店のバイヤーに高く評価されてきました。
ミガキイチゴ”と名付けられたイチゴは一粒735円(税込み)で販売されるなど、ブランド化に成功、固定ファンも着実に増えていきました。
震災からわずか3年後には一定の成功を収めていた岩佐さん、でも満足はしていませんでした。
岩佐さんは次のようにおっしゃっています。
「この町を諦めて出ていった方がいたら、一度是非ここに来て施設を見てもらいたいですね。」
「多分その中には将来に向けた可能性が沢山この農場にもあるとあると思うんですね。」
「そこで、もう一度この町で働いてみたいと思う人が沢山出てきたらすごくうれしいです。」

このインタビューから7年後、今年3月に再び山元町を訪ねました。
イチゴの栽培棟の中には43歳になった岩佐さんの姿がありました。
この7年で何が変わったのでしょうか。
「(2014年から)更に拡大されて、飛び地にもある感じですね。」

2014年当時、イチゴ栽培棟の数はわずか2棟、それが今では7棟まで増えていました。
売上高は4倍にも拡大したといいます。
GRAのオフィス棟、10人程度だった従業員は約80人に増えていました。
山元町出身の二人の男性従業員は次のようにおっしゃっています。
「地元で働ける喜びはすごく感じています。」

「やりがいしかないですね。」

そして岩佐さんは次のようにおっしゃっています。
「元々この会社は私と共同創業者2人の3人で始めたのが今では80人ぐらいの方が働いていて、ここで生活する人が増えたことが一つ大きな目に見える変化だと思っていますね。」

そしてGRAからクルマで5分ほど離れた場所では、高橋俊文さんが山元町内の農地を借り上げ、ミガキイチゴ”を生産しています。
実は高橋さんは5年前、GRAの主催するミガキイチゴ”の就農研修も第一期生で参加、2年間の研修を全て終え、2018年に山元町で独立を果たしました。
高橋さんは次のようにおっしゃっています。
「山元町での就農にちょっとこだわったという部分はあります。」
「津波で被災して壊滅的な被害を受けたイチゴの産地を復活させたいっていう想い。」

高橋さんのように山元町で独立したイチゴ農家は7人に上ります。
山元町全体のイチゴの生産額は約16億円(2020年)と既に震災前の約13億円(2009年)を上回っているのです。
そしてGRAは東京・世田谷区三軒茶屋にカフェ「イチビコ」をオープンしました。
ここではミガキイチゴ”だけでなく規格外のイチゴも使用、イチゴをふんだんに使ったスイーツが人気で、若者たちでいつもにぎわっています。

故郷のイチゴ生産を復活させると誓い、奮闘してきた岩佐さん、10年を経て今、どう感じているのでしょうか。
「どんどん去っていくだけだったこの町(山元町)にわざわざ引っ越してくれて農業を始める方も沢山できるということですよね。」
「この10年でやれることは全部やってきたと思いますし、当初思い描いていたことが出来たかなと思っています。」

実は東日本大震災が起こった翌年に山元町当たりのイチゴ農家を取材で訪れた相内優香メインキャスターは、津波による塩害でとてもイチゴを育てられる土壌ではなくなっていたといいます。
その10年後にイチゴのブランド化に成功させて、本当にたくましいなと感じたといいます。
これからの10年、岩佐さんは若い人たちが当たり前に農業に希望を持てる10年にしたいということで、更なる発展に期待したいと思います。

以上、番組の内容をご紹介してきました。

以下に番組の要点をまとめてみました。
・故郷のイチゴ生産を復活させようと、震災の翌年、岩佐大輝さんは34歳の時に農業生産法人、株式会社GRAを立ち上げ、世界最先端の栽培方法でイチゴ産地の復活を目指した
・震災前はIT関係の会社を経営していた岩佐さんは、その知識を使い、徹底的に省力されたイチゴ栽培を実現させた
・最先端の農法で栽培されたイチゴは早くから百貨店のバイヤーに高く評価されて、ミガキイチゴ”と名付けられたイチゴは一粒735円(税込み)で販売されるなど、ブランド化に成功、固定ファンも着実に増えてきている
・震災からわずか3年後には一定の成功を収めていた岩佐さんはそれでも満足しておらず、2014年当時、イチゴ栽培棟の数はわずか2棟、それが今では7棟まで増えており、売上高は4倍にも拡大し、10人程度だった従業員は約80人に増えていた
・そして、山元町出身の従業員に地元で働ける喜び、やりがいを感じてもらえた
・更にGRAの主催するミガキイチゴ”の就農研修の参加者の中にはイチゴ農家として独立を果たした若者も出てきた
・こうした結果、山元町全体のイチゴの生産額は約16億円(2020年)と既に震災前の約13億円(2009年)を上回っている
・更にGRAは東京・世田谷区三軒茶屋にカフェ「イチビコ」をオープンしたが、若者たちでいつもにぎわっている
・故郷のイチゴ生産を復活させると誓い、奮闘してきた岩佐さんは今、この10年でやれることは全部やってきた、そして当初思い描いていたことが出来たと思っている

こうしてまとめてみると、相内キャスターもおっしゃっているように岩佐さんをはじめ東日本大震災で大変な被害に遭われた山元町のイチゴに賭ける人たちのたくましさを感じます。
しかもミガキイチゴ”という名のブランドイチゴを誕生させ、1粒735円(税込み)という高額であるにもかかわらず、百貨店のバイヤーに高く評価され、山元町全体のイチゴの昨年の生産額は震災前を上回るまでにイチゴ農家を復活させたのですから、とても素晴らしい取り組みであるという一語に尽きます。
更に、岩佐さんは都内にカフェをオープンさせ、繁盛しているといいます。

さて、今、日本各地でコロナ禍で売り上げ減少に苦しんでいる様々な業種の業者さんがいらっしゃると思います。
しかし、アイデア次第で岩佐さんのようにイチゴ農家を復活させたり、前回ご紹介したデリバリーサイト「出前館」のように成長を遂げている企業もあるのです。
ですから、コロナ禍はビジネスにとってマイナスの要素がある反面、プラスの要素もあるのです。
ですから、こうしたマイナスの状況を千載一遇のチャンスと捉えて前向きにビジネスに取り組んでいただきたいと思います。

なお、どうしてもアイデアが浮かばない時には次の2つの言葉を思い出してください。
アイデアは既存の要素の組み合わせである
アイデアは存在し、発見するものである

 
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