2020年08月11日
アイデアよもやま話 No.4718 吉野彰博士からのメッセージ その1 開発を乗り越えるまでに存在する3つの大きな関門!

6月17日(水)放送の「ミヤネ屋」(日本テレビ)でノーベル化学賞受賞者、吉野彰博士からのメッセージについて取り上げていました。

そこで、2回にわたってご紹介します。

1回目は、開発を乗り越えるまでに存在する3つの大きな関門についてです。

 

リチウムイオン電池(バッテリー)の開発で2019年ノーベル化学賞を受賞した吉野彰博士(72歳)ですが、開発を乗り越えるまでには大きな3つの関門がありました。

第1の関門は基礎研究(1981年〜1985年)、“悪魔の川”でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「要するに0から1を生み出すための研究なんですよ。」

「当然そこにいろんな苦労がありますね。」

 

1972年、旭化成株式会社に入社後、新しい製品を作るための研究所に配属された吉野さん、ここでは「こんなものが出来たらいいな、それが出来るかどうかやってみよう」というところで、手探り状態でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「1981年でしょ。」

「いわゆるポータブルの電子機器はせいぜいこれ(電気カミソリ)しかなかった。」

「だけど、これからはポータブル化されますよっていう機運だけはあったんだよね。」

「その中で一つ、大きく出て来たのは8ミリビデオカメラやろね。」

「パスポートサイズってやつですよね。」

 

簡単に持ち運べる電池が作りたい、そこで必要となってくるのが電池の軽量化、そして今までになかった充電して繰り返し使える電池でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「(かつて電池は無くなったら捨てていたのが、充電出来るのが今は当たり前になっているが、その発想は中々出てこない気もするが、)特に携帯用の電池はね。」

「これからいろんな機器がポータブル化されるにあたって、軽くて小さい電池が必要だなっていうことが望まれてはいました。」

 

しかし、吉野さんを待っていたのは“いばらの道”でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「基礎研究っていうのは1人か2人ぐらいで2年間ぐらいやるのかな。」

「ああでもない、こうでもないと言いながらね。」

 

当時の吉野さんの様子について、妻、久美子さんは次のようにおっしゃっています。

「子育てで大変な時でも、休日出勤で出かけたり、夜でも勝手に出て行っちゃうし。」

 

時には家庭を顧みず、研究を重ねた結果、開発スタートから2年後の1983年、繰り返し使えるリチウムイオン電池の試作第1号が完成しました。

しかし、次に待ち受けていたのが第2の関門、製品化・事業化(1986年〜1990年)、“死の谷”でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「本当に商品化出来るかどうかということを確かめていきましょうというのがここなんですよ。」

「(例えば大量生産出来るのかとか)、問題点がいっぱい出てくるわね、次から次に。」

「一つの問題点が解決したと思ったら、次の問題点がまた出ている。」

「繰り返しなんですね。」

「特に電池の場合、難しかったのは安全性だろうね。」

 

この開発当時、1986年、鉄の塊を電池の上に落とし、発火しないかを確かめる安全性テストを何度も行っていました。

ことごとく失敗に終わったテストですが、何度も何度も改良を重ね、ようやく安全性を確認し、1990年代に商品化されました。

ところが最後に待ち受けていたのが最大の関門でした。

すなわち、第3の関門、市場での競争(1990年〜1995年)、“ダーウィンの海”でした。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「要するに、“死の谷”を乗り越えると世の中に出れるんですよ。」

「でもしばらく売れない時期が続くんだよね、数年ね。」

「どんなもんでもあるんですよ。」

「全く新しいものってリスクがあるでしょ。」

「万が一、それを使ってトラブルを起こしたらっていう恐れがあります。」

「みんな様子見るわけですよ。」

「(何年ぐらい続いたのかという問いにたして、)3年ぐらい続いたのかな。」

「そりゃしんどいよ。」

「工場も出来て売れまへんは一番しんどいですね。」

 

すると吉野さんの体に異変が起きました。

そばで見ていた妻、久美子さんはその時の様子について次のようにおっしゃっています。

「枕に髪の毛が沢山くっついていて、あれ?と思った時があるんです。」

「それはストレスから来ているものだったのかなと思う時がありました。」

 

体調を崩しても必ず売れるという信念を持ち続けていた吉野さん、するとある出来事がきっかけで状況が大きく動き出すことになりました。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「1995年だわな。」

「「Windows95」が出たでしょ。」

「あの年がまさに“IT革命”に向かって世界中が全員走り出したんだよね。」

「その時期を待っとったんだよ、みんな。」

 

1995年、「Windows95」が発売されると、パソコンが企業や一般家庭に一気に普及、そのパソコンに吉野さんが開発したリチウムイオン電池が使用され、世界中で注目されました。

これを機に、モバイル化が加速、携帯電話、ノートパソコンなどにも小型で安全なバッテリーのリチウムイオン電池が使われ、大ヒットとなりました。

その結果、市場も急成長、売り上げは右肩上がり、今年中には5兆円市場になるという予測もあります。

今では世界中の人々が吉野さんが開発したリチウムイオン電池を持つようになりました。

吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「(絶対売れると思っていたかという問いに対して、)しかるべき時期にそういう時代が来るよというのは分かってはいるけどね。」

「それは説明出来ないんだよね。」

「(一日一日に失敗はないということなのかという問いに対して、)うん、次の成功のための失敗だからね。」

「失敗が重なって、それが成功になるわけだから。」

 

そして、研究開発から約38年、遂にその功績が世界に認められました。

ノーベル化学賞を受賞した秘訣について、吉野さんは次のようにおっしゃっています。

「やっぱり未来読みなんだろうな。」

「未来は必ずこうなるよということを自信を持って信念にしとかんといかんね。」

「グラグラしたら、これはダメよ。」

 

未来を読む、その信念を持ち続け、研究を続けて来た吉野さん、常にそばで支えて来た妻、久美子さんは受賞後の会見で次のようにおっしゃっています。

「最高のプレゼントをありがとうございます。」

 

吉野さんが若者に伝えたいメッセージは「創造と挑戦」で、次のようにおっしゃっています。

「不可能は必ず可能になる。」

「IT革命(1995年)の場合もそうでしょ。」

「今から振り返ったら誰も想像していなかった。」

「逆にいうと、周りの人に説明したらね、そんなもん「絶対あり得ない「とか、「絶対不可能」だとか返事が返って来るようなアイデアがたぶん正解。」

 

人が不可能だと思うことを可能にする72歳、研究の旅はこれからも続いていきます。

 

番組の最後に、新型コロナウイルスで大変な状況に置かれている皆さんに、吉野博士から次のメッセージをいただいています。

「まだ今回の出来事を評価する時期ではありませんが、一つ確実に言えることは、まだまだ人類は無力な面をたくさんたくさん残しているということです。」

「これらの課題を実際に解決していくのはこれからです。」

「そして、その原動力になるのは若い皆さん方だと思います。」

 

「私のリチウムイオン電池での経験を一つご紹介しましょう。」

「苦労して何とかリチウムイオン電池を世の中に出したのは1990年代の初めでした。」

「でも残念ながらしばらくは全く売れませんでした。」

「(しかし)必要とされる時代が必ずやってくると信じ、それをモチベーションとすることで、ある日突然のごとく売れ出したのです。」

「IT革命が始まったのです。」

「力強いモチベーションがあれば、どんな困難も乗り越えることが出来ます。」

 

以上、番組の内容の一部をご紹介してきました。

 

番組を通して、一口にアイデアと言っても、それをかたちにして商品化し、更に利益に結び付けるまでのプロセスはいろいろな困難を伴うことが分かります。

それを吉野博士は、開発を乗り越えるまでには以下のように大きな3つの関門があると表現されております。

 

第1の関門:基礎研究、“悪魔の川”

第2の関門:製品化・事業化、“死の谷”

第3の関門:市場での競争、“ダーウィンの海”

 

そして、吉野博士がリチウムイオン電池の開発途上で体調を崩しても必ず売れるという信念を持ち続けていたというように、3つの関門を乗り越えるうえで、アイデアがかたちにするまで決して諦めない“ネバーギブアップ”精神を持ち合わせることも大変重要です。

また、製品が世の中に受け入れられるには、リチウムイオン電池の販売開始と時期を同じくした「Windows95」の販売といったような“運”もあるようです。

逆な見方をすると、マイクロソフトのようなソフト開発メーカーやパソコンメーカーにとってもリチウムイオン電池の実用化は大変な追い風になったと言えます。

 

このように見てくると、“時代の風”というか、時代が求める何かに応えるためにそれぞれのメーカーがそれぞれの得意分野で開発を進めて商品化を目指すと、ある時点でこれらがうまくつながり、多くのユーザーが待ち望んでいたいくつかの商品として結実するという解釈が出来ると思うのです。

まさに、18世紀のイギリスの経済学者、アダム・スミスの提唱した“神の見えざる手”を想起させます。

 

そして、自分の開発している製品やサービスがこうした“時代の風”に応えることが出来るという確信が強ければ強いほど、“ネバーギブアップ”精神が強まり、大きな3つの関門を乗り越える原動力になると思うのです。

 

リチウムイオン電池は、まさにこうした製品の研究・開発の典型例だと思います。

ですから、吉野博士がこうした製品の研究・開発に出会えたこと、そしてこの長期にわたる開発に資金を投入し続けた優れた経営陣の経営する企業、旭化成に入社したことはとてもラッキーだったと思います。


 
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