2018年11月27日
アイデアよもやま話 No.4184 ”奇跡の糸”が世界を変える!? その2 「銀メッキ繊維」誕生の経緯!

7月31日(火)放送の「ガイアの夜明け」(テレビ東京)で「銀メッキ繊維」について取り上げていたので5回にわたってご紹介します。

2回目は「銀メッキ繊維」誕生の経緯についてです。 

 

繊維メーカー、ミツフジ株式会社(東京都千代田区)の3代目社長、三寺 歩さん(41歳)はある特殊なシャツ、すなわち「シャツ型ウエアラブル端末」を作ろうとしています。

その秘密兵器は銀メッキを施した特殊な繊維、すなわち「銀メッキ繊維」です。

 

そのミツフジのルーツは京都にあります。

ミツフジ京都本社には三寺さんが信頼を置く「銀メッキ繊維」の専門家がいます。

2代目社長を務めた父、三寺 康廣さん(70歳)です。

ミツフジは西陣織の帯工場として創業しました。

京都伝統の西陣織、康廣さんは今も時間を見つけては親戚の工場で原点に立ち返ります。

ミツフジは1980年代、繊維産業の生産拠点が海外に移り、苦境に立たされました。

活路を求めた康廣さんはアメリカに渡り、銀メッキ繊維のノウハウを習得、独自に研究を重ねてオリジナルの「銀メッキ繊維」を作り上げたのです。

それは日本で初めて抗菌靴下にも採用されました。

康廣さんは次のようにおっしゃっています。

「「売れないことはない」という思い込みが強いから出来たんだろうと。」

「1年間に(投資が)約5000万円ぐらいですから。」

「約20年続けましたから、財産がみんな飛んじゃいましたよ。」

 

父、康廣さんの執念によりミツフジの財産は生まれました。

ところが、2012年、三寺さんのもとに父、康廣さんから思わぬ知らせがありました。

当時について、三寺さんは次のようにおっしゃっています。

「要は、今月資金面で助けがないと会社が倒産して、当時親族が働いていましたので「親族バラバラになって、実家もなくなるんだ。もうこの糸や仕事はダメだ」とか、そして自分たちが工場や事務所を失ったことに、私が見る分には「悔しい」という気持ちがないんですね。」

「「なんでもう1回挑戦しないんだ」と思って、本当に心から悔しくて涙が止まらないんですね、ずうっと。」

 

三寺さんは、2014年に勤めていたIT企業を辞め、会社を継ぐことを決意、給料もなく、貯金を切り崩す生活が始まりました。

「銀メッキ繊維」を売るには、新たな市場を開拓するしかないと考えました。

そして、父、康廣さんに相談した時のことについて次のようにおっしゃっています。

「「昔ながらのやり方をやれ」って押し付けてくるわけですね。」

「「俺はそれが正しいと思うんや」って言って大喧嘩ですし。」

 

三寺さんは父の反対を押し切ってウエアラブル端末の開発に着手しました。

そして2016年、「シャツ型ウエアラブル端末」を作り上げたのです。

この時のことについて、父、康廣さんは次のようにおっしゃっています。

「「どうやってマーケットを広げるか」、「ものづくりだけじゃダメなんだ」というのが彼(三寺さん)の考え方ですね。」

「仲が悪いですからね、ここ。」

 

しかし今では国内だけでなく、海外からも問い合わせが殺到、売り上げはこの4年間で10倍以上と急成長を遂げています。

 

以上、番組の内容の一部をご紹介してきました。

 

番組を通して知る、三寺さんと父、康廣さんとのやり取りは会社の存続を賭けた壮絶なものだったと想像出来ます。

そして、父、康廣さんの「銀メッキ繊維」づくりに賭ける執念と、三寺さんの新たな市場開拓に必要な「銀メッキ繊維」を生かした「シャツ型ウエアラブル端末」がミツフジのその後の急成長につながったのです。

ですから、結果的に見れば、父親のモノづくりに賭ける執念とその息子の事業に賭ける強い想いという親子2代の絶妙な組み合わせが功を奏したと言えます。

 

多くのベンチャー企業が生まれては消えていく中で、ごく一部の企業だけが成功を収めるというように、ビジネスの世界はとても厳しいです。

しかし、どのような状況になっても成功を信じてモノづくり、そしてどのようにビジネスを展開していくかに執念を燃やして取り組むことが成功を手に入れるとても重要な要件であることは間違いありません。


 
TrackBackURL : ボットからトラックバックURLを保護しています