2018年02月22日
アイデアよもやま話 No.3946 長崎で被爆した少年の重い言葉!

昨年12月23日(土)放送の「あの人に会いたい」(NHK総合テレビ)は日本被団協代表委員だった谷口 稜曄(タニグチ スギテル)さん(2017年88歳没)についてでした。

そこで今回は番組を通して谷口さんの重い言葉についてご紹介します。

 

被爆の惨状を伝える長崎県の原爆資料館、そこに一度見たら忘れられない写真があります。

原爆の熱線を浴びた一人の少年、その背中は一面真っ赤に焼けただれています。

“赤い背中の少年”、そう呼ばれたこの男性は奇跡的に生き延びました。

谷口 稜曄さんは背中の痛みと闘いながら原爆の残酷さと核兵器廃絶を訴え続けました。

谷口さんは生前次のようにおっしゃっています。

「こんな状況にされた原爆、その原爆を作った人間、それを作らせた人間、それを使わせた人間、またそれを使って喜んだ人間、これは人間じゃないと思う。」

「絶対許せないです。」

 

被爆した時、谷口さんは16歳、朝から郵便配達の仕事をしていました。

1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。

猛烈な熱線と爆風が自転車をこいでいた谷口さんの背中を襲いましたが、奇跡的に命を取り留めました。

爆心地から1.8km、周りにいた人たちの多くが一瞬で命を奪われました。

原爆が投下された後、アメリカの調査団が撮影した記録映像には治療を受ける谷口さんの姿が映っています。

谷口さんはうつぶせのまま身動き一つ出来ませんでした。

この時のことについて、谷口さんは生前次のようにおっしゃっています。

「シーツが真っ赤になるほど出血して、その時悲鳴を上げて痛かったね。」

「それから「殺してくれ、殺してくれ」って叫んだ。」

「焼け火箸でギューッと押しつけられているみたいなものね。」

「焼け火箸は押し付けたって途中で冷えるけどね。」

「それじゃなくてやっぱり焼きごてだね。」

「電気ごてみたいなものをこーやってやられるみたいなのね。」

 

1950年(昭和25年)、ようやく退院が許されました。

谷口さんは20歳になっていました。

務めていた郵便局に復帰、あの日長崎市内を回っていた職員のうち生き残ったのは谷口さんただ一人でした。

背中のやけどは骨にまで達していました。

ひと時たりともその痛みから逃れることは出来ませんでした。

谷口さんは生前次のようにおっしゃっています。

「背中の傷のところ、べたっとシートにつけられないんですね。」

「だから腰のところだけシートに当たるけどね、背中は浮かせている。」

 

「1日のうち何回となく背中は変化しますからね。」

「結局ズキズキして痛んだり、乾燥した状態になったり、どうかした時は乾燥した状態になった時だろうと思うけど、とげが刺さったみたいにチカチカするのね。」

 

谷口さんの背中には原因の分からない別の症状も現れていました。

背中にできた石のような硬いかたまり、これを取り除くために13回も手術を受けてきました。

谷口さんは生前次のようにおっしゃっています。

「死ぬまでこの状態のままだろうと思うね。」

「よく長生きして頑張って下さいって言われるけど、長生きすれば長生きするほど苦しみはそれだけ続かなければいけないということね。」

「一日でも楽になるということはないわけですから、生きている間は苦しまなければいけない。」

 

40歳を過ぎた頃から谷口さんは自らの被爆体験を積極的に語るようになりました。

ある日の講演会では原爆を知らない被爆二世たちに傷ついた身体を見せていました。

核兵器がこの世から無くなるのを見届けなければ安心して死ねない、そんな想いで講演活動を続けてきました。

子どもたちを対象とした講演会では次のようにおっしゃっています。

「苦しい時、あの時あのまま死なせてくれればよかったと思うこともあります。」

「よくいう生死の中をさ迷う、しかし誰一人として(私が)生きるという人はいなかった。」

「地獄をさ迷い、滅びそこねて生かされてきたんだと思います。」

 

75歳を過ぎてもこうした講演を年間200回近く行ってきました。

 

妻の栄子さんは谷口さんの背中に毎日薬をぬります。

栄子さんが1歳年上の谷口さんと結婚したのは26歳の時、見合い結婚でした。

谷口さんの被爆については知っていても、初めて背中を見た時には大きな衝撃を受けたといいます。

その時のことについて、栄子さんは次のようにおっしゃっています。

「私泣いたさ。」

「あーと思った、びっくりした、涙が出た。」

「かわいそうどころか、あらーひどいと思った。」

「原爆ってこんなだったのかと。」

「だって知らないから、いなかったからこっち(長崎)に。」

「そしてだんだん落ち着いて面倒を見てやらないとと思った。」

 

2017年、谷口さんにとってうれしい出来事がありました。

世界の122ヵ国が賛成し、核兵器の禁止条約が採択されたのです。

谷口さんはこの知らせを長崎市の病院で知りました。

そして次のようにおっしゃっています。

「非常に喜ばしいことだと思います。」

「次から次に核兵器を必要だと言って持つ国が増えていますから、頑張らないといけないと思います。」

 

“赤い背中の少年”、谷口 稜曄さんは背中の痛みと闘いながら原爆の残酷さと核兵器の廃絶を訴え続けた88年の人生でした。

谷口さんは生前次のようにおっしゃっています。

「ただかわいそうだったとか、苦しかったでしょう、痛かったでしょうとか、そういうことではないんだと。」

「私は見世物ではないんだと。」

「私の身体を見てしまったら、誰がこうしたのか、誰のためにこうなったのかとみんなに知ってもらいたい。」

 

以上、番組の内容をご紹介してきました。

 

こうして谷口さんのように実際に原爆の被害に遭われた方のお話を伺うと、いかに原爆の破壊力がとてつもなく悲惨なものか、そして大量破壊兵器としての残酷さを思い知らされます。

そして今や、地球上に存在する核兵器は人類の滅亡のみならず地球そのものを破壊し尽してしてしまうほどの破壊力を有しているのです。

 

こうした核兵器ですが、そもそも核兵器は人間が作り出したものです。

ですから、人間の決断次第で核兵器を廃絶に導くことも出来るのです。

ところが、実際は北朝鮮の核兵器開発にも見られるように、核兵器保有国の拡大につながりかねない動きがあります。

更に、こうした核兵器保有国を通して万一核兵器がテロの手に渡るようなことがあれば、私たちの日常生活から安心・安全が奪われることになります。

特に北朝鮮のような国家財政が破たん寸前の国についてはこうした懸念が強くなります。

そこで、世界で唯一の被爆国、日本にはいかに核兵器による被害が想像を絶するほどの悲惨さをもたらすのかという現実を世界中に知らしめて核兵器廃絶に向けた流れを強固にする義務があると思うのです。

その第一歩が以前にもお伝えしたように、世界中の各国首脳を広島や長崎の原爆資料館に招待して実際にご自分の目でその悲惨さを実感していただくことだと思うのです。


 
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