先日、自身の誕生日を迎えて間もなく私の母は89歳で亡くなりました。
そこで母の死に際し、今の私の気持ちについて6回にわたってお伝えしたいと思います。
皆さんが身近な方を亡くされた際、気持ちの整理がつかない時、あるいは大変な落ち込みに悩まされた時に、少しでも助けになればと思います。
2回目は、母から私への最後の想いが救ってくれた私の命についてです。
私は今年2月始めくらいから咳がひどくなり、まともに人と話が出来ないほどになりました。
私は花粉症の症状がひどくなったと解釈してずっと耳鼻科の医院にかかっておりましたが、さすがにその先生から内科の医院を紹介され、3月7日に内科の先生に診断していただいたところ、肺炎だと告げられました。
そうしたところ、その翌日実家の父からいよいよ母が危ないのですぐに実家に来いという連絡を受けました。
そこで、内科の先生に相談したところ「今の症状からみて実家に帰ることは勧められない。どうしても行きたいなら、実家近くの病院に入院覚悟で行きなさい」と言われました。
そこで父とも相談の上、実家に行くことを諦めました。
しかし、母の亡くなった3月18日にはほとんど肺炎の症状が収まっていたので、お通夜、および葬儀の席で喪主である高齢の父に代わり喪主としての挨拶をすることが出来ました。
もし3月7日の前に母が亡くなっていれば、当然私は自分が肺炎とは知らず、実家に戻って葬儀の準備に取り掛かっていました。
そうなれば、ほぼ間違いなく実家で倒れ、最悪の場合には私も母の後を追うような状況になっていたとも考えられます。
ですから、今にして思えば、「お前にはまだこの世でやることが残されている。まだ死ぬのは早いよ。」という母の私に対する最後の想いが私の肺炎の症状が収まるまであの世に旅立つのを待っていてくれたのではないかと解釈しています。
母はあの世へと旅立ちましたが、霊の存在を信じ、あの世で亡き弟やご先祖様の霊といろいろと語り合うことが出来ると考えれば、残された私たち家族の悲しみのいくばくかは癒される思いです。
以前、京都に旅行した際、あるお寺のお坊さんが人は二度死ぬというようなお話をされておりました。(参照:No.100
ちょっと一休み その13 『宗教のあり方』)
その心は、1回目はお墓に入ること、2回目は人々の心から消える時点ということなのです。
ですから、母は物理的には亡くなりましたが、私たちの心の中では私たちが忘れない限り母の魂は生き続けているのです。
今回ご紹介したことは、あくまでも私の病状と母の死という現実を結びつけて私が自分なりに解釈したことです。
しかし、こうした解釈は私の中では単に解釈したという表現よりも確信した、あるいは実感したという表現の方が的確だと思っています。
さて、私は今実現すれば画期的ともいえるあるエネルギー関連の事業に取り組んでおりますが、「お前にはまだこの世でやることが残されている」という母の想いを実感すると、ちょうどスポーツ選手が多くの観衆の応援により大きなパワーを得て、想いも寄らぬ力を発揮して観衆を魅了するような技を展開するように、私も母の死による悲しみとともに事業を進めていくうえで、母から大きなパワーをもらったような想いなのです。
人の死というのは、平等で大変な資産家もそうでない人も例外なく死を避けることは出来ません。
ですから、身近な人を亡くした時の悲しみは誰でも平等です。
しかし、そうした時に死を悲しむだけでは、残された自分のしばらくの暮らしはとても暗いものとなってしまいます。
ですから、自分なりにいろいろとイメージをふくらませ、自分が前向きに生きられるように実感出来るような状態に意識的に自分を持っていくということはとても大切だと思います。