2016年10月29日
プロジェクト管理と日常生活 No.460 『カントの著作に見る戦争勃発のリスク対応策 その1 人間は邪悪な存在である!』

多くの人々が平和を願っている一方で、常に世界中のどこかで紛争や戦争が絶えず起きています。

そこで、プロジェクト管理と日常生活 No.459 『国家間のより強い依存関係こそ戦争勃発の最適なリスク対応策』ではプロジェクト管理の考え方に沿って、国家間のより強い依存関係の構築こそが平和維持にとってとても重要であるとお伝えしました。

そうした中、8月1日(月)から4回にわたり放送された「100分de名著」(NHK Eテレ東京)で「カント “永遠平和のために”」をテーマに取り上げていたので戦争勃発のリスク対応策の観点から4回にわたってご紹介します。

1回目は、人間は邪悪な存在であるということについてです。

なお、番組の講師は哲学者で津田塾大学教授の萱野 稔人さんでした。

 

第二次世界大戦後、日本は一度も戦争をすることなく70年もの時を刻んできました。

しかし、世界に目を向けると紛争やテロが止んだ日は一日としてありませんでした。

なぜ人は戦争をするのか、長い人類の歴史の中で繰り返し論じられてきましたが、まだ平和は訪れていません。

 

18世紀のヨーロッパを代表するドイツの哲学者、イマヌエル・カント(1724-1804)はその著書、『永遠平和のために』(1795年刊行)の中で永久に戦争の起こらない世界をどうしたら導くことが出来るのかを追求しました。

この著書の冒頭で、カントは国家間に永遠の平和をもたらすための6つの項目を以下のように明確に提示しています。

  1. 戦争原因の排除

  2. 国家を物件にすることの禁止

  3. 常備軍の廃止

  4. 軍事国債の禁止

  5. 内政干渉の禁止

  6. 卑劣な敵対行為の禁止

ここで言うところの常備軍とは、絶対王権の頃の傭兵を指しています。

当時は、フランス革命が起きたとは言え、まだ他の国は絶対王権の時代だったのです。

こうした時代では、王様が自分のためにいろいろな傭兵を雇って、戦争の際には傭兵を送り込んで戦争していたのです。

こうした傭兵は禁止と説いているのです。

一方、国民が自らが祖国を防衛するために団結して敵からの攻撃に備えて自発的に武器を取って定期的に訓練を行うことは常備軍とは全く異なる事柄で容認すると説いています。

 

なお、カントが理想主義者と誤解されていた例があります。

それは、歓待に関する以下の記述です。

「歓待、すなわち善きもてなしというのは外国人が他国の土地に足を踏み入れたという理由だけでその国の人から敵として扱われない権利を指す。」

「ただし、外国から訪れた人が要求することが出来るのは客人の権利ではない。この権利を要求するには外国から訪れた人を当面は家族の一員として遇するという特別な条約が必要であろう。」

 

これは1790年代のヨーロッパで移民の問題で注目されました。

だんだん移民を排除しろという人たちが増えていく中で、哲学者たちがカントの歓待に関するこの一節を援用して、移民を積極的に受け入れるべきであるという意見が哲学の世界で非常に盛り上がりました。

先ほどの記述のうち、特に前の文章に関心が寄せられ、これによってカント=理想主義者というイメージが定着したというわけです。

 

さて、カントは現実主義者とも見られています。

カントは、人間は邪悪な存在であると考えていました。

そして、戦争をすること自体が人間の本性だから、特別な理由がなくても戦争は起こると考えており、以下のような記述があります。

「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。常に敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威が常に存在する状態である。」

 

この考えは、ルソーやホッブズなど、当時ヨーロッパの哲学者らが唱えた社会契約説に基づきます。

社会契約説では、法秩序が存在しない自然状態では人間は常に自分の利益だけを考えて行動し、闘争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまうといいます。

だからこそ、人間は自らの命や権利を守るために相互にルールを守るという契約を結び、それが国家となった、要するそもそも国家ができたのは人間が自分の利益ばかり考えるような邪悪なものだったからだとカントは考えるのです。

だから、人間がなぜ犯罪や戦争を起こすのかという考えはナンセンスであり、平和状態は人間が新たに作り出していかなければならないというのです。

みんなが道徳的でいい人になれば平和になるはず、なんて夢見ていても平和は来ないというのです。

要するに、人間は元来邪悪な存在であり、従って戦争が起こるのが当たり前で平和の方が奇跡的であるとカントは考えていたのです。

人類の歴史を見れば、人間は暴力を使って争ったり、あるいは他人のモノを奪ったりして生存してきたというのです。

 

では、どうすれば戦争が起きなくなるかということを考えていかなくてはならないと訴え、以下のような記述があります。

「平和状態は新たに創出すべきものである。敵対行為が存在していないという事実は敵対行為がなされないという保証ではない。人は市民的・法的な状態に入ることで相手に必要な保証を与えることが出来るのである。」

 

私たちの関係であれば、既に政府があって法律があるので、誰かが暴力沙汰を起こせば政府が取り締まってくれます。

ところが、国家と国家の関係に関してはそこの上に立つ政府だとか何か国際的な警察機構は存在しないので、国家間で何かトラブルがあった場合、場合によっては戦争する可能性があります。

そこにちゃんとした法的な仕組みが入って初めて平和と言えるというのです。

こうした国家を超えた取り締り機関が無い中でどうやって国家間にこうした保証をもたらすことが出来るのかというのがカントの考えるテーマだったのです。

 

以上、番組の内容をご紹介してきました。

昔から人間の本性には基本的に善であるとする性善説と人間の本性は基本的に悪であるとする性悪説があります。

そして、実際に世の中には全身全霊で困っている人たちのために尽くすなどして社会貢献事業に邁進している人たちがいる一方で、意味もなく人を殺したり、自己の野望のために何千万人もの人たちを死に追いやるとんでもない独裁者もおります。

また、戦争や紛争というかたちで同じ人間同士が争い、多くの人たちが大変な目に遭ったり、命を奪われております。

性善説に立とうが、性悪説に立とうが、多くの人たちはこうした戦争や紛争は出来るだけ避けるべきだと考えていると思います。

カントも同じ思いで、『永遠平和のために』を刊行したのだと思います。

その際、カントは人間は邪悪な存在であるという大前提を掲げていましたが、これはプロジェクト管理の基本的な考え方に照らすと極めて妥当だと思います。

なぜならば、戦争勃発のリスク対応策を検討するうえでは、最悪の状況を想定したうえで進めるべきであり、そのベースは人間は邪悪な存在であると同時に国も利己的な存在であるいうことだからです。

性善説に立っていたのでは、まともなリスク対応策の検討は出来ないのです。

 

さて、人間は自らの命や権利を守るために相互にルールを守るという契約を結び、それが国家となった、そもそも国家ができたのは人間が自分の利益ばかり考えるような邪悪なものだったからだというカントの説はとても逆説的に聞こえます。

またこうした考え方に立つと、一見格調高い国家の基本である憲法の条文も人間が邪悪な存在であることの裏返しのようにも思えてきます。


 
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