3月3日(木)放送の「コズミック フロント☆NEXT」(NHKBSプレミアム)のテーマは「天文学を180度変えた男
コペルニクス」でした。
番組を通してコペルニクスの大発明について3回にわたってご紹介します。
1回目ではコペルニクスの唱えた地動説がすぐに広まらなかった理由についてお伝えしましたが、2回目は天動説が受け入れられるようになった理由についてです。
1回目ではコペルニクスの唱えた地動説がすぐに広まらなかった理由についてお伝えしましたが、年月が過ぎ、コペルニクスが60歳を過ぎた頃、ローマ・カトリック教会の幹部から次のような趣旨の手紙が届きました。
「宇宙の天球についてのあなたの労作を出来る限り早く私宛にお送りください。」
当時、ローマ・カトリック教会は暦を改め、正確にする必要に迫られていました。
コペルニクスの地動説はその改暦に欠かせないと考えられていたのです。
しかし、地動説をそのまま世に出せば、大論争が起き、異端者にされかねないとコペルニクスは悩みました。
ようやく公にする覚悟を決めたのは死の間際、70歳近くになった時でした。
そして、1543年に「天球の回転について」というタイトルで出版されました。
その中には地動説を象徴する図が描かれていました。
太陽を中心とし、惑星が同心円状になっている太陽系の姿です。
今、私たちが教科書で学ぶ太陽系です。
ところが、コペルニクスの本は大きな批判を受けることはありませんでした。
当時、世の中に混乱が起きても不思議ではなかったこの本が不問とされた理由は本の中にありました。
それは本の始めに序文として書かれた1ページほどの文章でした。
そこに「仮説」の文字があります。
この序文を書いたのは、コペルニクスの友人でドイツ人神学者のアンドレアヌス・オジアンダーです。
オジアンダーはこの本が大きな抵抗を受けることを避けるため、あくまでも仮説に過ぎないという序文に差し替えていたのです。
序文のお蔭で「天球の回転について」については日の目を見ることが出来たのです。
コペルニクスの本は彼の死後、広まっていきました。
その1冊がイタリアの国立図書館に保管されています。
コペルニクスの死後からおよそ100年後に活躍した人物が持っていたものです。
本のいたるところに書き込みがされています。
それを書いたのは“天文学の父”と呼ばれたガリレオ・ガリレイ(1564年〜1642年)です。
イタリアで生まれ育ったガリレオはコペルニクスの地動説に強い影響を受けました。
ガリレオは当時発明されたばかりの天体望遠鏡で惑星をより精密に観測し、地動説は真実であることを突き止めました。
晩年、宗教裁判にかけられますが、地動説への信念を曲げることはありませんでした。
その後、地動説は世界中に広まっていきました。
現存するコペルニクス像の台座には「地球を動かし、太陽を止めた人物」と刻まれています。
コペルニクス研究家のイエジィ・シコルスキさんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「コペルニクスは前代未聞の発見をしたという自覚があったでしょう。」
「それは世界をひっくり返すものでした。」
「謙虚で勤勉ですが、自尊心を持ち合わせた人でした。」
「彼の苦労は並大抵のものではありませんでした。」
「でも大きな葛藤を打ち破っていったのです。」
「コペルニクスが最も大切に考えてこと、それは真実の追求だったのです。」
晩年、コペルニクスは天文学について次のように書き残しています。
「学問の中の学問である「天文学」は想像も及ばぬ無上の喜びを与えてくれる。」
天文学の常識を180度変えた地動説、発想の大転換はその後も受け継がれ、今も宇宙の謎を解くカギになっているのです。
以上、番組の内容をご紹介してきましたが、現在の天文学の進歩に大きく貢献したコペルニクスの地動説も当時の常識では容易には受け入れられなかったのです。
とは言っても、本の序文での“仮説”というコペルニクスの友人、オジアンダーの機転によりスムーズに受け入れられることが出来たのです。
いくら素晴らしい大発見でも、それが実用化され、社会に普及されなければ“宝の持ち腐れ”で終わってしまいます。
ですから、世間を揺るがすような大発明をスムーズに受け入れられるようにするためには、大発明とともに世間にスムーズに受け入れられるようにするためのアイデアもとても重要なのです。