これまで何度となく、一人一人の意識が変わり、行動を起こすことにより社会を変えることが出来るとお伝えしてきました。
そうした中、ちょっと古いですが、昨年7月18日(土)放送の「戦後史証言プロジェクト
日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(3) 公害先進国から環境保護へ」の録画を最近ようやく観ました。
そこで、主に番組を通して公害先進国から環境保護への歩みについて8回にわたってご紹介します。
5回目は、環境権の誕生とその世界展開についてです。
転機の年となった1970年、公害先進国、日本に強い関心を抱いた世界の研究者44人が3月に開催された東京シンポジウムに集まりました。
進む環境破壊をどうするか、4日間最新の研究成果を伝え合い、討議を続けました。
最終日に提唱された新たな権利、環境権に社会科学者、宮本
憲一さんは注目しました。
当時を振り返って、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「基本的人権としての環境権というのはあるべきであると。」
「従来、生活権とか健康権とか、いろいろありますけども、良き環境を享受する権利っていうのは人類が持つべきであると。」
「これはやっぱり日本の深刻な環境破壊などを見れば、健康障害で死から対策を立ててからでは遅いんで、良き環境を維持するという権利が明示された方がいいというので、最後に環境権が提唱されたんですね。」
東京シンポジウムは環境権を次のように決議しました。
「人たるもの誰もが健康や福祉を侵す要因に災いされない環境を享受する権利を基本的人権の一種として持つ。」
公害対策から環境保護へと時代は大きく転換していきました。
環境保護を求める声に行政も対応していきました。
1971年、公害対策本部に代わって新たな官庁、環境省が誕生しました。
環境庁の基礎を作ったのは二代目長官の大石
武一さんでした。
医師から政治家に転じた大石長官が早速取り組んだのは、福島、新潟、群馬にまたがる尾瀬の自然保護でした。
当時、観光客が増加していた尾瀬に、政府と地元3県は新たな道路建設を進めようとしていました。
貴重な湿原を守って欲しいという地元からの要請を受けた大石長官は、尾瀬を3日間にわたって巡り、人々の話を聞きました。
そして、既に始まっていた道路工事の中止を決めました。
NPO尾瀬自然保護ネットワークの椎名
宏子さんは、大石長官の決断が今の尾瀬の自然につながっていると考えています。
環境を巡る議論は世界でも広がっていました。
1972年にスウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開催されました。
環境問題についての初めての本格的な国連会議に113ヵ国が参加しました。
そのキャッチフレーズは“かけがえのない地球”でした。
日本の公害の被害者もこの会議に参加しました。
そして、胎児性水俣病患者の坂本
しのぶさんは「水俣と同じになってはダメ」と訴えました。
また、大石長官は戦後日本の公害を巡る歩みについて次のように演説しました。
「度重なるこのような悲惨な経験を通して、日本国民の間に深刻な反省が生まれてまいりましたことは当然であります。」
「誰のための何のための経済成長かという疑問が広く提起され、日本国民はより多くの生産、より大きいGNPが人間幸福への努力の指標であると考え、これに最大の情熱を傾けていましたが、この考えが誤りであることに気が付きました。」
この演説の素案を作った当時の環境庁大気保全局職員の加藤
三郎さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「決してエコノミックアニマルが日本の本姓ではないんだと。」
「日本人の本姓というのは自然を愛好する民なんだ。」
「ところが、戦後、復興の中で経済をなんとかしなくちゃいけないという中で猛烈な工業化を進めた結果、非常に意図しない公害が起こってきて、実際にひどい公害状態が発生したと。」
「それで水俣病とかイタイイタイ病にも確か触れたと思います。」
「そして、そういうものが発生して死者まで出たんだと。」
「で、そういうやり方をですね、日本国民は反省をして、新しい経済のやり方といいますか、そういうものを求めてるんだと。」
1972年7月、四日市公害裁判の判決が下されました。
津地方裁判所は、四日市公害認定患者の一人で漁師の野田
之一さんら9人の訴えを認め、原告勝訴を言い渡しました。
四日市コンビナートの被告企業は控訴せず、患者への補償に応じました。
更に、公害対策も講じていきました。
昭和四日市石油は亜硫酸ガスの削減につながる新たな機械を導入しました。
そして現在、使用している燃料の硫黄分は当時と比べて100分の1くらいまで削減されたといいます。
また、それに伴って、SOx(硫黄酸化物)の排出量も20分の1〜30分の1に減ってきているといいます。
1973年のオイルショックは、高度経済成長の時代の終わりを告げました。
当時の田中首相は国会で次のように演説していました。
「産業活動において、省資源、省エネルギーへの構造的対応を成し遂げ、節約は美徳の価値観を定着させていかなければなりません。」
この年、本格的な自動車の排ガス規制が始まりました。
これを契機に大気汚染を考慮した自動車が開発されるようになりました。
また、企業は環境に配慮した生産へと転換していきました。
1970年に提唱された環境権、この権利に基づいて全国各地で地域の環境保護が進められていきました。
北海道伊達市は、市民が参加して環境権を条例で定めました。
地域の自然を再発見するエコツアー、こうした取り組みは1972年に始まった環境権に基づく裁判がきっかけでした。
北海道電力伊達火力発電所、建設計画が発表されると多くの住民たちが自然環境の破壊につながると不安を抱きました。
漁師、農家、教員、学生などが建設を差し止めようと裁判を起こしました。
そして、民法・環境法学者の淡路
剛久さんは伊達市民の環境権裁判を支援しました。
淡路さんは、当時を振り返り、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「日本の憲法では、憲法13条には自由権的な幸福追求とか、個人の尊重とかそういう規定がありますし、憲法25条には生存権の規定があります。」
「で、その2つに根拠付けられて環境権は認められるのだと。」
「環境権で大事なことは、環境破壊が起こる前の段階で止めたい。」
「で、情報提供されて、意見を言って、問題提起をして、っていうかたちで環境破壊を防ぐと。」
「先例といいますか、経験というのはやはり三島沼津。」
「この運動として三島沼津のケースというのは大変大きな影響を各地の開発計画予定地に与えたと思うんです。」
開発される前に環境を保護しようという運動、三島沼津のコンビナート進出の反対運動も参考になったといいます。
1980年、住民による伊達火力発電所建設差し止めの請求は、理由無しとして棄却されました。
札幌地裁は環境権を訴えの根拠にすることを認めなかったのです。
しかし、淡路さんは環境権を掲げた訴訟によって得られたものも大きかったといいます。
「環境権というのは裁判所では認められていなくても、どんどんある意味で必要性っていうのは国民の間っていいますか市民の間に広がっているんだというように思うんですね。」
「伊達の裁判でも、環境権は認められませんでしたけれども、その過程ではどんどん公害対策が取られていくわけですね。」
「訴訟の中で、被告として訴えられた北海道電力、これがどんどん公害対策を厳しく取っていくわけです。」
この頃、環境権を掲げ、公共事業の差し止めを求める裁判が相次ぎました。
1978年に操業を始めた伊達火力発電所は、排煙の硫黄酸化物を取り除く装置を設け、環境に配慮しました。
環境権が誕生し、司法裁判の結果如何に係らず、企業側が公害や環境に配慮した取り組みをするような状況が芽生えてきたことこそ大きな前進だと思います。
次回の6回目は、公害対策から環境保護へ大転換についてお伝えします。