これまで何度となく、一人一人の意識が変わり、行動を起こすことにより社会を変えることが出来るとお伝えしてきました。
そうした中、ちょっと古いですが、昨年7月18日(土)放送の「戦後史証言プロジェクト
日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(3) 公害先進国から環境保護へ」の録画を最近ようやく観ました。
そこで、主に番組を通して公害先進国から環境保護への歩みについて8回にわたってご紹介します。
3回目は、「三島沼津型」公害反対運動が与えた四日市への影響についてです。
四日市の実例に学んで始まった三島沼津の反対運動、その実践が逆に四日市に影響を与えていきました。
四日市で被害者の実情を伝える活動をしていた「公害を記録する会」の澤井
余志郎さん(86歳)は、この当時、反対運動について学ぼうと沼津に吉岡さんを訪問しました。
そして、澤井さんは、沼津に習い、地域で学習会を繰り返しました。
沼津から西岡さんたちを講師として招き、話を聞くこともありました。
1967年6月13日、甘納豆を作っているお店の主人が「ああ、今日も空気が悪い」の一言を残して、60年にわたる生涯を自らの手で絶ちました。
それから4ヵ月後の10月、四日市の中学校に通う女生徒がぜんそくによる呼吸困難で亡くなりました。
自殺者に加え、若い命も奪っていく公害病、この年、9人のぜんそく患者がコンビナートの中核企業6社を被告として提訴しました。
中心となったのは、四日市公害認定患者の一人で漁師の野田
之一さんでした。
野田さんは、この時の状況について番組の中で次のようにおっしゃっています。
「せっかく俺は世の中に生まれてきたのに、こんな一方的な会社の悪行で苦しめられて病院で死ぬのを待っとるみたいなものやからね。」
「だから、こんなひもじい思いしとらんでも、いっそのこと裁判やろうと、決着つけてもうてな、俺ら負けたらな、ダイナマイト持って工場へ乗り込もうかという、そんな気持ちでやっていた。」
深刻な公害問題に対応を迫られた国は、1966年の末に「公害対策基本法」に取り組むことになりました。
厚生省が作った試案では、法案の目的を次のように記しました。
「国民の健康、生活環境および財産を公害から保護」
しかし、この厚生省案に反対意見が出されていきました。
経済企画庁、通産省、運輸省からの意見には、「経済発展との調和の考え方を取り入れるべき」とありました。
経済の発展を阻害しないことを重視していたのです。
経団連も通産省などと歩調を合わせました。
要望書で、厚生省試案を「産業界として多大の不安を禁じ得ない」と批判、経済の発展との調和を強調しました。
こうした経緯を経て、1967年、「公害対策基本法」が成立しました。
第一条に厚生省の試案にあった「国民の健康を保護」することが謳われました。
しかし、通産省、経団連などが主張した「経済の健全な発展との調和が図られるようにする」という文言、いわゆる経済調和条項が付け加えられました。
「三島沼津型」公害反対運動に影響を受けた四日市の公害反対運動がコンビナートの中核企業6社への提訴につながりました。
一方、こうした全国各地の公害反対運動が国に「公害対策基本法」の成立を促したのです。
次回の4回目は、公害先進国から公害規制先進国への大転換についてお伝えします。