これまで何度となく、一人一人の意識が変わり、行動を起こすことにより社会を変えることが出来るとお伝えしてきました。
そうした中、ちょっと古いですが、昨年7月18日(土)放送の「戦後史証言プロジェクト
日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(3) 公害先進国から環境保護へ」の録画を最近ようやく観ました。
そこで、主に番組を通して公害先進国から環境保護への日本の歩みについて8回にわたってご紹介します。
2回目は、四日市の公害問題の教訓を生かした「三島沼津型」公害反対運動についてです。
1960年代、公害は全国に広がっていました。
熊本県の漁村では工場排水に含まれる有機水銀が原因で水俣病が発生しました。
富山県の農村部では鉱山の排水に含まれるカドミウムによるイタイイタイ病が発生、患者の骨はもろくなり、激しい痛みに苦しみ、進行すると死に至りました。
多発する公害被害に政府は対応策を迫られていました。
この頃、政府の公害対策は一元化されておらず、厚生省など14の省庁にまたがっていました。
1960年代、まだ日本の国際競争力が非常に弱い中で、公害対策と経済のどちらを優先するか、省庁間で意見が分かれていたといいます。
多発する公害に追い付かない政府の対策、一方で更なる経済政策を進めていました。
新たに日本各地に産業都市を作ろうというものでした。
1962年、政府は「新産業都市建設促進法」を制定しました。
目指したのは、国民経済の発達でした。
四日市のような大規模開発を全国に広げようと、拠点となる15の新産業都市、それに準ずる6つの工業整備特別地域を指定しました。
その一つが富士山の麓、東駿河湾地区でした。
1963年、静岡県は三島市、清水町、沼津市にまたがる石油化学コンビナート計画を発表、それは四日市を上回る規模でした。
総工費1300億円、用地は300万平方kmにおよびました。
石油精製工場と石油化学工場を10kmを超えるパイプラインで海沿いの火力発電所と結ぶ計画でした。
地元に暮らす多くの人たちはコンビナート建設計画にあまり疑問を持たなかったといいます。
また、静岡県の公報、「県民だより」1964年2月号でも「中小企業も繁栄する」、「人体、農作物に影響はない」、「公害は全く考えられない」など、計画を推奨する言葉が並んでいました。
しかし、住民たちの中には不安を抱く人たちもいました。
当時、沼津工業高校教諭で物理を教えていた西岡
昭夫さん(87歳)たちは、公害が深刻化していた四日市のコンビナートを視察することにしました。
バスをチャーターし、四日市行きは何度も繰り返されました。
西岡さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「一晩中、車に乗って温度を測ったり、ガスの濃度を測ったり、そういうことをやるっていうことで(車を)出しました。」
「磯津っていう漁港がありますね。」
「そこへ行って聞いた時に、漁船のスクリューが錆びてみんな落っこっちゃうって。」
「それを知らずに、漁船を出して伊勢湾のどこかに行った時、ポローンと(スクリューが)落ちちゃって、船が動かなってそれで死ぬ思いをするっていう、そういう話を聞きました。」
「いかに凄まじいものかっていうことが分かりますね。」
吉岡さんは、四日市で見聞きしたことを地域の人たちを集めて伝えました。
こうした学習会は、三島市、沼津市、清水町の各地で数多く開かれました。
それが住民による反対運動へとつながっていきました。
西岡さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「一晩に3回くらい学習会をやるという、みんなため息が聞こえるぐらいの距離で勉強会をやったんですよ。」
「その時に皆さんはどんどんどんどん「これやらなきゃいけない」っていう雰囲気を皆さん自身が他の人からも受け取るし、みんながもう手をつなぎ出したことは間違いないですね。」
三島や沼津では、農民、漁師、商店主、主婦らが立場を超えて終結、コンビナート反対を訴えて市内を行進しました。
時には、国会やコンビナート進出企業へ陳情に出向きました。
コンビナート予定地に暮らしていた山本
保子さん(81歳)は、番組の中で次のようにおっしゃっています。
「お金は勿論どこからも出ないものですからね、街頭に立って募金運動、たすき掛けで本当にお母さんたちの子どもを守ろうという熱い気持ちの住民運動だったんじゃないかと私は思います。」
「だから、自然に沸き上がったお母さんたちの想いがね、やっぱり大きな力だったんじゃないですか。」
危機感を抱いた政府は、調査団を派遣、ヘリコプターによる気流調査や模型を使った実験などを実施しました。
工場のガスは風によって拡散し、四日市のような被害が発生することは無いと発表しました。
本当に被害は出ないのか、地元にも調査団が作られました。
西岡さんは、地域の気流を自分たちの力で調べることにしました。
閃いたのは、鯉のぼり調査でした。
西岡さんは、教え子に呼びかけ、各地の鯉のぼりで風向と風量を記録してもらいました。
その記録データを地図の上に落とすと、いつの時点で鯉のぼりがどっちの方向に向いていたかがきれいに出てきました。
この人海戦術が沼津と三島特有の気流を捉えました。
朝夕で複雑に変わる風が工場のガスを住宅地に留まらせ、被害を与える可能性が高いと結論を出しました。
政府と地元、二つの調査団は東京で直に向き合いました。
この会見の克明な記録が残されています。
模型による実験の信頼度について地元調査団が質問すると、政府調査団は次のように答えました。
「短い期間の調査でですね、信頼度のチェックという風な実験は出来なかったわけでございます。」
「現地での実験とのですね、突合せが欲しいわけなんです。」
「それは実はないわけなんです。」
政府調査団の弁明に、地元調査団は不審を抱いていき、次のように伝えました。
「あなた方は、あそこの土地の風というものをだね、どこからどう吹くかということを知らない。」
西岡さんは、この時の状況について番組の中で次のようにおっしゃっています。
「市民として普通の判断で勉強した結果をどんどん向こう(政府)へ申し出れば、絶対に勝てる、そういう気持ちがだんだん僕にも起きてきた。」
市民たちの強い声に、三島市長は1964年5月コンビナート受け入れ反対を表明しました。
4ヶ月後の9月13日、沼津では市民大会に2万5000人が集まりました。
反対の声が強まったことを理由に、沼津市長も受け入れ拒否を表明、コンビナート計画は断念されました。
社会科学者の宮本さんも、この時の状況について番組の中で次のようにおっしゃっています。
「(当時の市民大会の写真を見ながら、)すごいですよ、感動しましたね。」
「拒否をしたというのは、他のところに与えた影響は非常に大きいと思いますね。」
「まあ、「三島沼津型」と言われたんですけど、ちゃんと調査をして報告書を出して、学習会をして、それで本当に自分のところの地域はどういう発展をすればいいかということを考えるということを他の地域も学んだんだ。」
「そういう意味ではね、大変大きかったし、政府にとってみれば大変な事業をつぶされたわけですから、そういう意味では公害対策をしないともはや成長や開発は出来ないということが分かって、政府に対する影響も大変大きかったし、企業に対する影響も大きかったと思いますね。」
この素晴らしい成果を上げた画期的な「三島沼津型」公害反対運動の中でも、私が特に注目するのは、
沼津工業高校教諭の西岡さんのアイデアです。
西岡さんは、人海戦術により鯉のぼりを利用して沼津と三島特有の気流を捉えました。
この基本的なアイデアは、世界最大の気象予報会社、ウェザーニュース(千葉県美浜区)による画期的なサービスの人海戦術につながっていると私は思っています。
きちんとした現状把握に基づいた地域住民の学習会による団結、そして自治体や政府への訴えによるコンビナート計画の断念、この事実こそ、まさに一般市民が団結して動き出せば社会を変えることが出来るということの一つの大きな証拠なのです。
また、「三島沼津型」公害反対運動の成功は、その後の日本各地の公害反対運動のお手本となっていったのです。
次回の3回目は、「三島沼津型」公害反対運動が与えた四日市への影響についてお伝えします。