2016年02月15日
アイデアよもやま話 No.3313公害先進国から環境保護への歩み その1 四日市から始まった公害問題

これまで何度となく、一人一人の意識が変わり、行動を起こすことにより社会を変えることが出来るとお伝えしてきました。

そうした中、ちょっと古いですが、昨年7月18日(土)放送の「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(3) 公害先進国から環境保護へ」の録画を最近ようやく観ました。

そこで、主に番組を通して公害先進国から環境保護への日本の歩みについて8回にわたってご紹介します。

1回目は、四日市から始まった公害問題についてです。

 

まず、国内での公害発生から今日までの経緯について、以下にざっとご紹介します。

1960年代、日本各地で公害病が発生しました。

1964年、公害を未然に防ごうとして立ち上がった人たちがいました。

富士山ろくの町で市民たちが石油化学コンビナート進出計画を阻止したのです。

 

1970年、国も対策に本腰を入れるようになりました。

国会で14もの公害防止法を成立させたのです。

そして、翌年環境庁が誕生し、環境保護に乗り出しました。

同じ頃、環境権という新しい権利が提唱されました。

ちなみに、環境権とは、よき環境を享受する権利は人類が持つべきであるという考え方に基づいた権利です。

 

そして、1990年代、地球温暖化が問題視されるようになりました。

日本がホストを務めた京都会議(第3回気候変動枠組条約締約国会議 COP3)で先進国の温室効果ガス削減に合意しました。

 

こうして、ようやく昨年開催されたCOP21で、石油・石炭など化石燃料に依存しない社会を目指し、条約に加盟する先進国のみならず、途上国も含めて196カ国・地域が参加する初めての国際的な枠組みの合意に達することが出来ました。

 

さて、今回の本題に入ります。

1955年、政府は「石油化学工業の育成対策」を決定、石炭から石油に向かうエネルギー革命の中、石油化学コンビナート建設を進めていきました。

そして、三重県四日市が第一期計画に選ばれました。

経済白書が“もはや戦後ではない”と記した1956年、旧海軍の土地を再開発してコンビナート建設が始まりました。

そして、四日市では1959年に本格的な石油化学コンビナートが誕生しました。

 

1960年、政府は高度経済成長を更に促進する政策を打ち出しました。

当時の池田首相の「国民所得倍増計画」です。

この頃、本格稼働を始めた四日市コンビナート、プラスチックや化学繊維の素材などを製造し、経済成長を支えていきました。

 

コンビナートと川を挟んで隣接する四日市磯津地区では代々漁業を生業とする人たちが暮らしていました。

1960年、ここで獲れる魚が異臭がするとして、返品されるようになりました。

四日市公害認定患者の一人、野田 之一さんは、その体験を半世紀にわたって語り続けており、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「日本は一等国や。」

「わずか10年か15年で最低の国がやね、相当みな努力したと思うわ。」

「だから、そのツケが公害として現れてきたんだからね。」

 

「川へ入るとピリピリかゆい痛みがあってな、油くさいというか何というか、今の灯油と一緒の匂いや。」

「灯油に中へ刺身にした魚を突っ込んで、そのまま食ったような感じ。」

「こんな匂いだから誰も食わんだ。」

「ネコでも食わんだ、かざして止めた。」

 

魚の異臭騒ぎの翌年、四日市の市民の中に変な咳をする人たちが続出、次々と病院に駆け込むようになりました。

コンビナートのばい煙に含まれる亜硫酸ガスが原因でした。

これが四日市ぜんそくの始まりでした。

健康には自信のあった野田さんもぜんそくを発症し、入院を余儀なくされました。

野田さんは、この時の状況について番組の中で次のようにおっしゃっています。

「空気が入るのが難しいわけや。」

「そんで、普通に息出来ないから、(深呼吸)せんならん。」

「生きてる間、俺はこんな呼吸せんならんのかと思った、ひどい時は。」

「1人が2人、3人とだんだん病気になっていって、こりゃアカンがやとまず市役所へ行った。」

「そしたら、市役所はそんなこと知らんと。」

「ほんなら会社行こうやないかと、病気になった者同士で会社へ行ったわけや。」

「ほんなら、中部電力へ行ったらよそじゃないかと。」

「昭和石油に行ったらうちじゃないと。」

「三菱へ行ったら俺のところじゃない。」

「石原(産業)じゃないか、昭和石油じゃないかと被け(かずけ)合った。」

「だから俺は怒った。」

「ところが、そうやってもめてるうちにだんだんひどくなっていって病院へ入った。」

「入ったきりで死んでいく人が出てきた。」

「俺もとうとうここで死んでいくのかと悲観しとったわけよな。」

 

四日市で体に異常を訴える人が相次いでいる、化学者や社会学者の間で関心が広がっていました。

社会学者の宮本 憲一さん(85歳)は1962年、四日市を訪れました。

海水浴場を埋め立てた第二コンビナートが完成したばかりでした。

宮本さんは患者の訴えに耳を傾けました。

そして、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「その頃は空気が青色をしてましたね。」

「それから、硫化水素が入っていたんでしょう、他のいろんな汚染物質が入っているからものすごく臭くてですね。」

「ですから、住民の訴えは悪臭とぜんそくと両方ですよね。」

「悪臭がひどいっていうのは、これが特徴で、僕は初めて来た時に寝られなかったですね。」

「あまりにもひどくてですね、悪臭が。」

「白砂斉射の美しい砂浜があったところを埋め立てて第二コンビナートができて、そのすぐそばに市営住宅があるんですね。」

「ビックリしましたね、そういう乱暴なことを。」

「その地域の福祉を向上させるために地域開発するんだけども、そのことによって多くの被害者が出たり公害を出すっていう、これに衝撃を受けたんですね。」

「それが公害研究の始まりだったんですけどね。」

 

こうして、公害の実態を広く伝えないといけないと考えた宮本さんが公衆衛生の研究者と共に書いたのが「恐るべき公害」(岩波新書)でした。

ちなみに、この本は四十数万部売れたといいます。

四日市をはじめ、全国各地の大気や水の汚染状況を細かく調べた宮本さんは、被害を公害という言葉でまとめ、防止すべきだと訴えました。

この本をきっかけに、公害が全国で認知されていきました。

宮本さんは、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「一般的に公害現象と、つまり大気汚染や水汚染や地盤沈下や日常的に自分たちが健康に障害を受けていたり、あるいは汚い環境になってこれでいいのかと。」

「やっぱり、美しい綺麗な環境に住みたいと、そう願う人たちの気持ちが公害という言葉で一つにまとまってきたわけですね。」

「公害は困ると。」

「やっぱり成長もいいが、成長も福祉のためにあるならね、まず公害を防止出来るような成長でなきゃならないというふうに、公害という言葉が次第に普及していったんだと思うんですね。」

 

報道によると、新興国や途上国がまさにかつての四日市と同様の状況に似通っているように思います。

どうしても経済優先のあまり公害対策が手薄になってしまっているのです。

まさに、“歴史は繰り返す”です。

 

次回の2回目は、四日市の公害問題の教訓を生かした「三島沼津型」公害反対運動!についてお伝えします。


 
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