昨年10月10日(土)放送の「むのたけじ 100歳の不屈 伝説のジャーナリスト 次世代への遺言」(NHKEテレ東京)は、昨年1月2日に100歳を迎えたジャーナリスト、むのたけじさんの生きざまを通して日本の未来を考えるという内容でした。
そこで、5回にわたってご紹介します。
5回目は、ジャーナリズムのあり方についてです。
無謀な戦争が終わり、新しい時代が始まった1945年(昭和20年)8月15日、むのたけじさんは朝日新聞社を辞め、一切合切やり直すつもりで故郷の秋田県に帰りました。
地元の人たちと学び合い、自分を土台から作り直す、暗い世の中に自分の身を燃やす“たいまつ”になってやるという思いから、故郷の横手でタブロイド判2ページの小さな新聞、週刊「たいまつ」を発刊することにしました。
1948年(昭和23年)2月2日、創刊号を出しましたが、固定読者ゼロからの出発でした
願いと決意を込めた新聞ですが、反響らしい反響は聞こえませんでした。
たちまち準備した資金は底をつきましたが、止めるわけにはいきませんでした。
小さな記事を重視し、無力な人たちの味方になるという基本方針を貫きました。
また、読者と共に作る新聞を目指し、地元を足で歩きました。
妻と子ども、家族全員が協力してくれました。
こうして、1年後にはなんとか経営が成り立つようになりました。
地域の人と一緒に新聞を作りながら、人に会い、民衆の中に入って話し合う、それもまた口によって作るもう一つの新聞なんだという考えが生まれました。
1964年(昭和39年)、「たいまつ」発行から16年目に出した本「たいまつ十六年」が大きな反響を呼びました。
創刊号から数えて30年、780号で「たいまつ」は休刊しました。
その後は、全国を回っての公演活動を始めました。
呼ばれればどこにでも出かけました。
2004年2月、「琉球新報」での講演では次のようにおっしゃっていますが、特別の想いがありました。
「新聞そのものを生き返らせなきゃ駄目じゃないの。」
「小泉やブッシュの悪口よりも我々人間が、日本人1億2000万人、人類63億人が一人一人自分の生き方を変えながら社会の仕組みを変えていく。」
「琉球新報」の記者たちが沖縄戦当時の報道を検証して作り上げた「沖縄戦新聞」、戦後60年の年に特集号として発行し、新聞協会賞を受賞しました。
戦争に協力した新聞は新聞でしか責任を取れない、これこそむのたけじさんが戦後、朝日新聞でやるべき仕事だったと思い、「沖縄戦新聞」を読んでやられたっと頭をぶん殴られる思いがしました。
「たいまつ」は休刊しましたが、地域に根を下ろした新聞が全国で生まれています。
福島県いわき市で創刊された「日々の新聞」では、地域の話題だけでなく昨年の新年号から憲法問題に正面から取り組んでいます。
小さな新聞だからこそ大きな志が必要だとむのたけじさんは思っています。
子どもの時に嫌だった、村の大人がすぐに口にした言葉、「何しても世の中変わるもんじゃない、出る杭は打たれるぞ」、むのたけじさんは動き出した若者に希望を見ています。
昨年9月19日、安保法案が参議院で可決成立しました。
集団的自衛権の行使が解禁され、日本が攻撃を受けない場合でも戦争に加わることが可能になったのです。
これについて、むのたけじさんは次のようにおっしゃっています。
「戦後70年て言うんだけれど、これから10年経って戦後80年って出てこないもん。」
「なぜならば、もう10年経ったらあの15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)の経験を持った世代と今の若い世代とが今のように肩を並べてね(話し合いことが出来なくなっている)、だから戦後体制を引き継ぐというのは10年単位でいうならば今年がある意味では最後のチャンスというような想いがじじい、ばばあにあるし、若者たちも今歴史のバトンを引き受けてやんなきゃいかんのだという気持ちはピーッと感じてるんじゃないですか。」
「だから日本の社会にとっても今チャンスですよ。」
過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になると考えるむのたけじさん、95歳を超え、急に子どもたちへ向けた仕事が増えてきました。
本を書き、話をする、子どもたちの真っ直ぐな瞳に励まされ、平和を手渡す責任を増々感じています。
「2015 平和のための戦争展 in よこはま」(2015.5.29-31)での講演会でむのたけじさんは次のようにおっしゃっています。
「私はジャーナリストであって沢山の人に会って来て、結局立派だなあと思う人、それはどういう人か、何人か思い浮かべると共通点がある。」
「自分に誇りを持っている人、自分を大切にしている人、この人は必ず他人を大切にする、裏切らない。」
「なぜならば、自分を大切だと思うから自分に対して誇りと責任、それを考えるから(他の)人も大事にするんだ。」
「しかも命はみんな一個ずつ持つ、1回試せば終わりになる。」
「そうしたらもっと自分を大事に出来るんじゃなあい?」
「そうなったら、戦争だって考えてみれば10日くらいで無くすこと出来るはずです。」
「(今のメディアに求めることは無いかという問いに対して、)頭のてっぺんから足のつま先まで洗い直して全部作り替えろと。」
「現状では残念ながら同じ過ちを繰り返すばかりです。」
「それは何なのか、新聞は読者、テレビは視聴者という、それがお客さん扱いしないでいろんな所へものを言うよりも一般の当たり前に働いてご飯を食べている民衆をメディアの仲間として、その人々と共に新聞を、ニュースを社会に提供するという気持ちになれば、今とは変わったものにきっとなりますね。」
「“やるなら死にもの狂い、命がけ”、この言葉好きなんです。」
「駄目だと思ったら指1本動かすな、やるなら本気になってごらん。」
「必ず道は開かれる。」
「そういうふうに私は確信しております。」
今、むのたけじさんは今の日本には何でも書ける自由があるという思いを感じながら「100歳のジャーナリストから君へ」という子ども向けの本を書いています。
なお、むのたけじさんはジャーナリズム、そして子ども向けの本を書くことについて次のようにおっしゃっています。
「ジャーナルというのは日本語に訳せば日記です。」
「で、私の職業はジャーナリズムなんです。」
「個人の日記だと今朝何時に起きて飯食って何の仕事をして何時に寝た、今日を記録することになる。」
「ISM(リズム)を付けると、歴史の日記なんですな、社会の。」
「だから、今日何があってそれがどうなって、明日はどうなるだろう、こういう過去、現在、未来の関係を明らかにして、それを民衆に伝えていくのがジャーナリズム、新聞やテレビ、あるいは出版、ニュース映画などの任務なんです。」
「自分の仕事はね、それだと思ってるもんだから、特に今の若い方々に対しては過去に何があったのか、そこで我々じじ、ばば、おやじ、おふくろは何をやったか、やり得なかったか、要するに社会の現実の歩みから人間に対して語りかけていることを古い世代の責任者として伝えるのが私ども(ジャーナリスト)の仕事の要だと思ったもんだから。」
むのたけじさんには一つの夢があります。
死ぬ時にはこの世に平和がやってきたのだと思いながら、微笑みながら死ぬことです。
また、自分自身今が一番若々しい、みずみずしいと思っているといいます。
さて、昨年は戦後70年の年ということで、多くのマスコミが取り上げてきました。
今回5回にわたってご紹介した番組もその一環だと思います。
そして、私も多くのテレビ番組を見てきましたが、そこであらためて気づいたことがあります。
まず、日本の戦争経験者の多くの方々は先の戦争を始めたことを後悔しているということです。
そして、一般の人たちが考えるうえでの情報源としてジャーナリズムはとても重要です。
ですから、ジャーナリズムには時の政権や一般大衆の声などに振り回されずに常に真実を伝えることが求められるのです。
幸いなことに、今はSNSなどで個人でも自分の見たこと、聞いたこと、そして自分の考えを多くの人たちに発信出来ます。
また、そうした情報を多くの人たちが共有することが出来ます。
ですから、本来あるべきジャーナリズムとSNSなどがつながり、その結果世界中のより多くの人たちがつながることが二度と戦争を起こさないための大きな歯止めとなるのです。
ジャーナリズムの定義(歴史の日記)からすると、従来のジャーナリズムはマスコミやジャーナリストの独壇場でしたが、今やSNSなどもその内容によってはジャーナリズムの一画を占めるという時代を迎えているのです。
そういう意味では、インターネットは世界中の人たちの情報共有のインフラとして画期的な場を提供している素晴らしいツールだとあらためて思います。