2015年06月27日
プロジェクト管理と日常生活 No.390 『「玉砕」という言葉に隠された太平洋戦争における大本営によるチェックポイントの未設定』

4月5日(日)放送のBS1テレビの番組のテーマは「ドナルド・キーンさんが見た「玉砕」」でした。

そこで、今回は番組を通して太平洋戦争中の日本軍部の玉砕の考え方とプロジェクト管理との関連についてお伝えします。

 

ドナルド・キーンさん(以下、キーンさん)は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者であり、日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作があります。

また、とても日本びいきで、2012年3月に帰化申請が認められ、日本国籍を取得されました。

 

キーンさんが最初に出会った日本の本は「源氏物語」で、「日本は美しい国」という印象を持たれました。

そうしたキーンさんが日本人に対する見方を大きく揺るがす出来事が起きました。

それは、太平洋戦争の舞台の一つとなったアッツ島においてです。

キーンさんが初めて米兵として訪れた戦場、それは後に玉砕の島として知られることになるアッツ島でした。

そこで、キーンさんは信じがたい光景を目にしました。

日本の兵士が手榴弾を自分の胸に当てて死んでいたのです。

これがキーンさんが初めて見た死体でした。

キーンさんたちの常識では、手榴弾が一つしかない場合は敵に投げるのですが、日本兵は「恥」のことを考えて、あるいは愛国主義か何かあって最後の手榴弾を自分の胸で爆発させたのです。

 

「怖い国」、中国に侵略し、アメリカを攻撃する日本に抱いた想い、更に敵を攻撃するための武器で自らの命を絶つという行動は、キーンさんの常識を遥かに超えていました。

キーンさんがアッツ島にいた時、日本軍の中で何が起きていたのでしょうか。

アメリカ兵約1万1000人に対し、日本兵はわずか約2600人、最初から兵力の差は歴然でした。

 

今も残っているアッツ島守備隊の作戦経過報告書には、武器や兵力の増員を本国に求めていたことが記録されています。

これに対し、当初、大本営はアッツ島への援軍を約束していました。

しかし、アメリカ軍の上陸7日目にその方針を撤回しました。

そして、大本営は次のような通達を打電しました。

「最後に至らば、潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮の覚悟あらんことを望む。」

 

捕虜になることを許さない、事実上の自決命令でした。

そして、1943年5月29日、アッツ島守備隊は総攻撃に臨み、ほぼ全滅しました。

その時の大本営発表は次のようなものでした。

「アッツ島守備の我が部隊は遂にことごとく玉砕しました。」

 

「玉砕」、玉が美しく砕けるように名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと、「玉砕」という言葉を大本営が国民に向けて初めて使った瞬間でした。

そうした日本兵の行動をとても理解出来なかったというキーンさんは、日露戦争の時に書かれた本を読み、増々疑問が深まったといいます。

日露戦争の時、日本人は捕虜になったのです。

そして、戦争が終わったら、捕虜だった人たちは帰国したのです。

 

そんな日本軍がその後、なぜ玉砕の思想に染まってしまったのか、捕虜の歴史を研究しているユーラシア21研究所の吹浦 忠正理事長は、番組の中で次のようにおっしゃっています。

「軍隊も社会も余裕がなくなったんですよね。」

「国民の若い人たちをみんな兵隊にしなきゃ間に合わないくらい戦争の規模が大きくなった。」

「日露戦争の頃は、武士の精神が残ってましたよ。」

 

太平洋戦争では、ほとんど訓練されない若者が戦場に行った結果、簡単に捕虜になる兵士が相次ぎ、そのため捕虜になることを禁止したといいます。

更に、応援の軍を送る余裕がなく、部隊を見捨てることを覆い隠すために「玉砕」という言葉で美化したのだといいます。

実際に、キーンさんが目の当たりにしたアッツ島の玉砕は徹底的に美化されました。

以下のように守備隊からの援軍の要請はなかったと嘘の発表まで行い、美談に仕立て上げられたのです。

「山崎部隊長はただの一度でも一兵の増援も要求したことがない。」

「また、一発の弾薬の補給をも願ってまいりません。」

「その烈々の意気、必死の覚悟には誰しも感佩していたのであります。」

 

更に当時、新聞はアッツ島守備隊の玉砕を「烈々、戦陣訓を実践」と報じていました。

戦陣訓とは、軍人が守るべき道徳と戦場での戒めを説いたもので、1941年1月1日、東条英機陸軍大臣(当時)により定められました。

つまり、捕虜になることは不名誉であると断じ、禁じていたのです。

このことについて、キーンさんは番組の中で次のようにおっしゃっています。

「新しい神話が出来ました。」

「その神話は長い長い日本の歴史の中で捕虜になった人は一人もいない、日本人は絶対に捕虜にならない。」

「そして、みんな信じたのです。」

「日本人は、ほとんど全部戦死しました。」

「日本の戦争はこんなものだと、みんな思うようになりました。」

「そして、その後、他のところで玉砕があったのです。」

 

玉砕はアッツ島を皮切りにその後、サイパン島、硫黄島な、沖縄どに広く浸透、戦死者の急増を招きました。

 

いかがでしょうか。

太平洋戦争では、兵隊は国のために戦いましたが、戦闘中に亡くなるばかりでなく、食糧難のため餓死した方々も多かったといいます。

こうしたことは、大本営の作戦計画の不備によるものです。

 

いつの時代も、どこの国の政権も軍部も自らの失敗をいろいろな理由をつけて、あるいは巧みな表現を用いて出来るだけ覆い隠そうとする傾向があります。

そうした状況下においてこそ、マスコミには真実を伝える責任があるのです。

ところが、太平洋戦争中、軍部による情報統制により、正しい情報がマスコミに流されず、それをもとにマスコミは誤った情報を国民に流しました。

一方、以前にもお伝えしたように、国民も軍部の思想統制化にあって、戦意高揚するような情報を求めていたので、マスコミもそうした情報を流さないと新聞が売れなかったのです。

 

それはさておき、大本営が現地軍に援軍を送れなくなった時点で全ての戦略は破綻しているのですから、降伏すべきだったのです。

単純に考えてみれば、若い人たちを次々に戦場に送り出し、そうした兵士が全ての戦場で玉砕してしまったら、戦後の復興はどうなるのでしょうか。

要するに、当時の大本営には自らの戦略の失敗を覆い隠すことの方が大事で、終戦後の行く末まで考えた戦略を持っていなかったのです。

 

このことこそが、当時の軍部の最も責められるべきことだと思います。

プロジェクト管理において、プロジェクトの進行における要所、要所においてチェックポイントを設け、その後の対応をどうするかを決めます。

当然、その判断基準もあらかじめ決めておきます。

例えば、システムの導入前のチェックポイントにおいては、プロジェクトの進行状況から当初の計画通りプロジェクトが進行していれば、計画通りシステムを導入するという決定を下しますが、そうでなければ導入を延期する決定を下します。

もし、こうした決断をせずに、遅れた状況のままシステムを導入すれば、導入後に大きな混乱を来すからです。

 

同様に、戦争を始める決定を下す際にも、戦後の対応を睨んで、負けた場合を想定してどのような状況になった場合、降伏するかを決めておかなければ、まさに一億総玉砕まで突き進んでしまい、国は存続出来なくなってしまいます。

太平洋戦争においても、あらかじめ大本営がきちんとチェックポイントを設定しておけば、兵士の無駄な犠牲を生まなくても済んだはずだと思うのです。

勿論、最大限の努力をし、戦争を回避するに越したことはありません。


 
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