2015年05月18日
アイデアよもやま話 No.3079 かつての日本は公害先進国だった!

今、経済成長期にある中国では公害が大きな社会問題になっています。

そして、かつての日本の高度経済成長期にも同様の問題がありました。

そうした中、2月20日(金)放送の「視点・論点」(NHK総合テレビ)のテーマは「戦後公害史からの教訓」でした。

そこで、番組を通して公害の専門家である大阪市立大学の宮本 憲一名誉教授の論説をご紹介します。

 

戦後70年目の節目の年を迎え、成果と失敗を総括する作業が始まっています。

この中では、奇跡と言われた経済成長を実現した日本人を称える論説が多いです。

ところが、この時期に同時に世界を震撼させた水俣病や四日市大気汚染などの深刻な公害が日本人を襲ったのです。

それをどのように克服したかということは、高度経済成長の成果と同様に重要な日本人の業績として評価されてよいです。

この公害問題と対策の記録は、中国を始め途上国にも貴重な教訓となります。

 

1954年から1974年にわたる日本経済の高度成長の過程で深刻な公害が発生しました。

当時の大都市圏はスモッグに覆われ、河川は汚染し、悪臭紛々のドブのような状態で、生活環境は汚染されていました。

地方では、水俣病やイタイイタイ病が発生し、四日市ぜんそくに始まる大気汚染公害は全都市地域に拡がりました。

万博の行われた1970年は、新聞に公害事件が毎日報道され、最大の政治問題となりました。

欧米の研究者は、当時の日本は近代化に伴うあらゆる公害が発生しているとして、公害先進国と呼んでいました。

公害は水俣病のように企業の犯罪的な行為によって起こる例もありますが、全国的に日常的に発生する環境破壊は政治経済システムの欠陥でした。

高度経済成長期は、汚染物の多い重化学工業を人口の密集した大都市圏に立地し、企業は利潤の極大化のために公害防止の経費を節約しました。

また、鉄道から自動車中心の体系への急激な移行により、環境は汚染されてしまいました。

 

戦前の日本人は倹約を美徳としていましたが、戦後は企業の大量生産に応じて資源の浪費と大量消費・廃棄による生活様式に変わりました。

このように市場経済は公害を多発する社会構造に変えましたが、生活環境を守るべき政府は高度経済成長政策に走り、公害対策のための更生や行政を進めませんでした。

それどころか、公共事業の公害が発生したのです。

 

公害は、人間の生命・健康・生活環境に被害を与えるだけでなく、家族やコミュニティを危機に陥れます。

公害病は水俣病のように労働災害から類推する場合も多いのですが、環境汚染を媒介するので、労災に比べて原因は複雑で病状も多様です。

そのため、被害者が告発しなければ潜在化してしまいます。

公害の社会的特徴は、被害が高齢者、年少者、病弱者などの生物的弱者に、また低所得者、下層中産階級などの社会的弱者に集中し、自己責任では解決出来ず、社会的救済が必要です。

また、人命の損失、あるいは自然破壊のように不可逆的、絶対的損失を伴うので予防が最も重要な環境政策です。

 

日本人は新しい社会問題に直面すると、欧米に先進的な例がないかと探しますが、1960年代末までは欧米も環境法制や環境庁はありませんでした。

当時、大学に環境関連の科目もありませんでした。

日本の国語の辞書には「公害」という言葉もありませんでした。

1964年、宮本さんと当時の京都大学工学部衛生工学教室の庄司 光教授との共著「恐るべき公害」(岩波新書)が最初の学際的公害問題のテキストでした。

 

このような状況を変えたのは、生命・健康と生活環境を守る住民の世論と運動です。

欧米の研究者は、日本の環境政策を創造したのは、この下からの住民の力だと評価しています。

中でも、政策に強い影響を与えたのは1963年か1964年の三島市、沼津市、清水町の公害反対の市民運動です。

この運動は、地元の開発者が日本で最初の環境アセスメントを行い、公害の恐れがあることを確認して、政府の計画した石油コンビナート誘致反対に至りました。

政府も対抗上、アセスメントをしましたが、科学論戦に敗北しました。

市民運動が初めて環境保全のために政府と企業の経済成長政策を阻止したのです。

これ以後、全国に公害反対と福祉を求める市民運動が拡がりました。

 

日本の公害対策を進めたのは、2つの道です。

一つはこの市民運動を背景に革新政党や労働運動が自治体の首長を変え、いわゆる革新自治体が大都市圏を中心に全自治体の3分の1を占めるようになり、公害、福祉などの都市問題の解決の道を開こうとしました。

政府は三島市での敗北以後、成長戦略を進めるためにも公害対策を必要として、1967年、世界で最初の公害対策基本法を制定しました。

ところが、経済界の圧力により、この法の目的は経済成長と生活環境の調和を図るというもので、環境政策はルーズで汚染は防止出来ませんでした。

そうした中、1969年、東京都は公害と福祉を施策の方針に掲げていた美濃部亮吉知事(当時)のかけ声で、この政府の調和論を批判して、生活環境優先で企業の公害防止責任を強く求め、公害防止条例を制定しました。

政府は、これを違法として圧力を加えました。

しかし、1970年には国内外で公害反対の世論が拡がり、研究者やマスメディアは東京都の条例を支持しました。

政府もこうした与論に押され、遂に年末に公害国会を開いて環境関連重要法を制定しました。

翌1971年、環境庁が成立して公害対策がようやく軌道に乗りました。

 

一方、企業城下町といわれた水俣や四日市では、被害者は差別されて孤立していました。

このため、被害者たちは最後の手段として公害裁判を提起しました。

この裁判は従来の財産権の賠償ではなく、生命・健康という人格権侵害の救済です。

しかも、被害者は多数であり、四日市の場合は加害者も複数でこれまでのように個別的因果関係を証明することは不可能でした。

このため、研究者の協力で若い正義感に溢れた弁護士が疫学的証明を軸に企業責任の明確化と被害の救済の独創的な法理を作りました。

世論の影響もあり、全ての全国の勝訴に終わりました。

この影響で1974年、政府は行政が二次的救済をするという世界初の公害健康被害補償法を施行しました。

これによって、大気汚染の紛争は解決への道が付きました。

これは、戦後憲法体制下の地方自治と司法の自立という民主主義の成果です。

 

1975年に高度経済成長は終わり、以後、環境政策は一進一退しましたが、経済のグローバリゼーションと冷戦の終結と共に、環境問題は国際政治の中心課題となりました。

公害防止の技術、特にエネルギーや資源の節約技術、産業構造の改革が進んで、環境産業も発展しました。

1980年代後半、環境関連科学は学会の大きな分野になって発展しました。

ところが、政治経済システムが完全に変わったのではなく、経済成長優先の政策は進んでいます。

そのため、公害はなくならず、今、原発災害という最大の公害が起こり、アスベスト災害のように過去の有害物の蓄積が被害を出すストック公害が発生しています。

また、日本の環境政策は、依然として予防、特に環境影響評価が各国に比べ著しく不備なために、都市景観や沖縄の貴重な資源の破壊が続いています。

原発を潰す災害の予防は緊急課題であり、歴史の教訓に従って関係自治体の対策が住民の

人権を守ることを最優先課題にし、行政が不備ならば裁判を提起して公正な判断を下すように運動することが解決の道だと考えます。

 

以上、ここまで宮本さんの論説をご紹介してきました。

いつの時代も問題が深刻化しないと政府や利潤追求最優先の企業はなかなか重い腰を上げない傾向があります。

そうした時に、かつての公害問題の対策推進の起爆剤は住民運動や地方自治体の対応だったというのは、とても救いになります。

国民や地方自治体が本気で行動を起こせば、国を動かし、変えることが出来るのです。

 

ですから、今、国は原発再稼働を推進していますが、国民や地方自治体が本気で取り組めばそれを阻止することが出来るのです。

同様に、“脱原発”のみならず、化石燃料による火力発電から太陽光や風力などの再生可能エネルギー発電へのシフト、すなわち“持続可能な社会”の実現も国民や地方自治体、あるいは関連企業の取り組み次第で出来るのです。

 

今、世界各国共通の大きな課題は“持続可能な社会”の実現です。

今一度、日本国民は経済先進国から“持続可能先進国”への転換に向けて率先して動き出すべき時期を迎えていると思うのです。

かつての日本は公害先進国でしたが、他国に先駆けて克服に向けて前進したという実績があるのですから、“持続可能先進国”への転換も不可能ではないはずです。


 
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